「ガーデン」とはお世辞にも言えない様(さま)の猫の額ほどの家(うち)の庭で、
それでも豪快に干しまくったシーツが春風に揺れるのを見ていたら、のっそりと季節外れの入道雲が顔を出した。
「……ニイ」
ニイって渾名(あだな)のコイツは同じ年で、同じ街の商店仲間だ。
うちはお肉屋。
ニイの家は、パン屋さん。
そして悔しいけれど、ニイの家のパンは世界一うまい。
デパ地下にある外国のパン屋さんよりも、私はおいしいと思う。
そんなことは、ニイには言ったことないけれど。
「休憩か?」
ニイはそう言うと、縁側に寝転んでいた私の隣に断りもなく座った。
ずうずうしい。
「休憩っていうか、今日は私はお休みなんだ」
お休みだからゆえに、朝から洗濯なんかをしちゃっているわけで。
そしてお休みなのに洗濯を頼まれちゃう、そしてそれをやっちゃう私って、絵に描いたような孝行娘だわ、と思う。
「あぁ、休みか。ってことは時間があるってことで、この間の返事を聞かせてもらおうかな」
そう言うとニイは、ふふんなんて顔して私を見下ろしてきた。
返事。
つまり、この間のあれは冗談ではなかったってことだよね。
ついこの間のこと。
どんなに贔屓目に見ても仲なんて良くもなかった私に、ニイはバケットパンを持って(勿論ニイの家の)プロポーズをしてきたのだ。
しかも、その時はお店を開けたばかりで、店内ではお父さんや弟たちがバタバタと仕込みをしている状態で。
プロポーズ。
つまり、一般的にはそれは結婚の申し込みの意味である。
一瞬お店にいた全員の動きが止まったのは勿論、私なんて、つい後ろを振り向いて誰に言ったんだろうって確認しちゃったし。
(そんな風な動きをした私の頭を、ニイはあろうことか持参したバケットで叩いたのだ!)
ともかく、お父さんとお母さんは涙を流して大喜びするわ、弟達たちだって大きく安堵の溜め息をつくわ。
私という当事者以外は、そりゃもうニイに向かって拝むような勢いで、歓迎の態度を示していたわけ。
私もねぇ、別にさ。
独身主義ってわけでもないんだけど、つまりが、たまたま何故かご縁が無かったもんで。
ふと気が付くと、まぁまぁいいお年になって現在に至るというか、そんな感じで。
しかし、だからって、この隣に座るニイと結婚っていうのもねぇ。
だってさぁ。
「あのさ。聞くけどさぁ。私達、仲良しじゃなかったわよねぇ?」
起き上がってニイに言う。
本当のところ、仲良しじゃないなんて表現は控えめなくらいだ。
商店の子で、一番年が上なのがニイと私で、(つまり、ニイのあだなの由来は「おにいちゃん」だ)そこで私とニイとはことごとく対立した間柄だったのだ。
商店が集まって催す福引での、子ども用の賞品を選ぶときも。
児童館での上映する映画の選択でも。
更に言うのであれば、高校の文化祭でも。
ことごとく、私はニイに敗れていた。私よりもニイの意見が通ってしまうのだ。
そんな話の持っていき方というか、立ち回りの仕方というか、ニイは上手いというか卑怯というか。
突き詰めていくと、ニイが上手いというよりも私が下手とも言えるのかもしれないけれど。
……まぁ、ともかく。
だからそんなニイが、よりによって私にそんなことを言うなんてわけが分からないのだ。
「仲良しでは……なかったなぁ」
ニイが言う。
自覚、あるじゃない。
ニイの「仲良し」さんで私がぱっと思い浮ぶのは、山口君に窪田君にあと有島さん。
ニイも入れたあの四人は、高校時代いろんな意味で目立つ人たちだった。
「でも」
ニイが話し出す。
「だからって沙希のことが嫌いだったわけじゃない」
そうニイが言う。
その発言は、ちょっと意外だった。
「え? そうなの? 私はてっきりそうだと思っていたけど」
私のことが嫌いだから、ことごとく反対するのかなぁって。
私ってそんなされるほど、ニイにとって嫌な奴かなぁって。
表面上はニイに対立するしているポーズをとりつつも、みんなから信頼されているニイだからこそ、その姿勢をとり続けるのは辛かった。
「ふーん。そうなんだ。あれは、私のことが嫌いだからそうしていたってことじゃなかったんだ」
へぇ。
ふーん。
体の力が抜けていく。
まるで、心の奥の奥にあった小さな小さな硬い石ころが、すっと消えていくような感覚だった。
ニイに嫌われていたわけじゃないんだ。
へぇ。
ふーん。
よかったなぁ。
「……もしかして、ずっと沙希はそんな風に思っていたのか?」
「うん」
「……俺の気持ち、全然知らなかった?」
「うん。気持ちって? ……えっ」
ニイと目が合う。
う、うわぁ。
な、なんだか、いつもとは違うニイの表情。
偉そうでもなくて、意地悪そうでもなくて。
なんていうか、ほら、ドラマなんかでよく見る、男の人が女の人に「好き」って言いそうなアレよ。
あれれ。
ちょ、ちょっと待ってよ!
「……お願いだから、ニイ。『ずっとそうだった』、なぁんて言わないでよ」
ニイが怒ったような顔をする。
「なんでだよ」
なんでだよ、ってこっちが言いたいわ。
「……あのね、ニイ。だからね、そのさぁ。分からないって、フツー」
「……この、どアホゥ。こう、ことごとく俺がおまえに絡んできたわけをさ、考えるだろう。フツー」
「どアホゥ? ねぇ、どアホゥって言った? アホだけじゃなく、
『ど』までつけたわよね? おまけに『ホ』のあとに小さな『ゥ』も聞こえたような。
あ〜! 腹が立つぅ! 何なのよ、一体。突然お店に来て変なことを言うわ、
今日みたいに人がゆっくりと憩いのひと時を過ごしているときにガッツリと乗り込んでくるわ。
あんたは、アレキサンダー大王かっ!」
「変なことって、プロポーズのどこが変なことなんだよ! で、なんでアレキサンダー大王が出て来るんだよっ!」
「だったら、織田信長。読めない動きをするなっていうの」
「読めない動きって、そもそも沙希が、俺の行動や気持ちを読もうとしなかったんだろ?」
「え? つまり私のせいってこと? なんで私がニイのことそこまで考えないといけないのよ」
「つまり沙希は、そこまで俺のことを嫌っているってことかよ!」
「何を言っているのよ! 嫌いなのはそっちでしょ? ニイが私のこと嫌いなんでしょ?」
「何を聞いているんだよ! だから、そうじゃないって言っただろう? 沙希が俺のこと嫌いなんだろ?」
「何を言っているのよ! 私がいつニイのことを嫌いだなんて言ったのよ! 嫌いじゃないわよ、好きよ!」
……え……。
ニイがにっこりと微笑む。
「コホン。じゃ、まぁ、そういうことで。俺、帰りに店に顔を出して、おじさんたちにも挨拶をしていくから」
やられた。
そうなのよ、こういうところでなのよ、ニイに負けちゃうのって。
「……ニイと結婚なんてしないもん」
「まぁまぁ、そう言わずに。したら、楽しいって」
……それは、まぁ、そうかもしれない。
ニイとしゃべるのは、まぁ……面白い。
特に、もう、この言い合いもニイが私が嫌いだってところからきていないって思うと……ねぇ。
そんな私の心の動きを知ってか、ニイが微笑む。
ちょ、ちょっと待て、私。
あの微笑み。
あれは、今まで何千回とも何万回とも見たことがある、ニイの勝利的スマイルで。
……あぁ、嫌なこと思い出した。
福引での子ども用の賞品のお菓子。
袋詰にするお菓子の最後の一品で、私の一押しのマーブルチョコは、ニイの一押しのビックリマンチョコに負けたのだ。
あの時も、こんな顔で笑って私のことを見ていたっけ。
……あぁ、嫌なことを思い出した。
高校の文化祭での模擬店案で、私の一押しの焼き鳥はニイ一押しのホットドックに負け、私は屈辱のケチャップにまみれながらニイの指揮のもとにホットドックを作ったんだっけ。
そうよ、そうよ。
その時も、私の顔見て、あんな顔して笑っていたわよ。
あぁ、危ない、危ない。
危うく、ニイ・ワールドに引き込まれるところだった。
今回ばかりは、一生もんの判断だから、迂闊にニイに屈してはならないのだ。
今回ばかりは、断固ニイの意見には反対しなくちゃ。
そもそも、ニイが言うとおり今までのあれが本当に愛情表現だっていうのなら、それってやっぱり酷いことだと思う。
そうよ。あんな風にされて喜ぶほど私は人が良くないのよ。
それに、そんなことが当然許されるなんて思っているのなら、ニイの頭はどうかしている。
パンを作るのは上手くても、精神構造上に問題ありだわ。
「やっぱり、やめた。」
ニイに言う。
「はぁ? それ、どーいうことだよ」
ニイが突っかかってくる。
「どーいうことも、こーいうこともなく、そーいうことっ!」
私がそう言って家に入ろうとするとニイが腕を掴んできた。
「ちょっと待てよ」
「待ちません。あ、貴希(たかき)!」
部屋の向こうの廊下を歩く弟の貴希に声をかける。
貴希はニイを見るなり顔を輝かせている。
それは、「早くこの姉を嫁に貰ってくれ」というかのような輝きだ。
そうはいくかいっ!
「お客様、お帰りです」
私がそう言うと貴希は一瞬驚いたような顔をしたあと、
しょうがないなぁって感じでこっちにやってきた。
「ニイさん、こんちは。で、ちょっと失礼します」
そう言うと貴希は庭のサンダルを突っかけてニイの側に立つと、ぐいっとニイを持ち上げた。
「はい、貴希くん。あとはよろしくね」
私がそう言うと、唖然とするニイを担いで、貴希が庭から外へ出て行った。
私と貴希たち弟は協定を結んでいて、弟達の彼女について彼らの味方となることを引き替えに、私のボディガードをすることになっていた。
何しろ、彼らは町で一番でかい兄弟ということで有名でもあって。
ニイもでかいが、流石に町一番には叶わないのだ。
持つべきものは弟。
役立つ。
「今度こそは、ニイには負けない」
いや。しかし。
何をもって勝つって言うのかよくわからないけれど。
まぁ、ニイのことだからまた何か仕掛けてくるだろうし。
この話も、これでおしまいってことではないと思うから。
それに今回は、ニイばっかりが優勢ってこともないし。
「なんか、面白くなってきたなぁ」
急に生活に彩りが出てきたような。
そんな思いをもちながら、庭で揺れるシーツを眺めた。