『うりこ姫と二十円と天邪鬼 』

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 なんとか逃げられると思っていたのに、家まであとわずか五メートルというところで、私は捕まってしまったのだ。
 そして、捕まっただけででなく、キスまで。
 思いっきり相手の足を踏んでパンチした視界の隅に、猫背の曜ちゃんが、ひゅうと小さく口笛を吹く姿があった。
 
 
「いらっしゃいませ」
 お店のドアが開いた気配を感じて、私は入り口に視線を移した。
「よっす」
 曜ちゃんだった。
「……おはよう」
 毎朝確認する星占いによると、今日の私の運勢は「神経質にならずに、周りの人の親切を素直に受け入れて」だそうな。
 しかし、神経質にならないでいられるだろうか。
 今日これから、私は曜ちゃんに、想いをこめまくったお誕生日のケーキを渡すっていうのに。
 けれど、悲しいかな。その想い人の曜ちゃんに、私は昨夜とんでもないシーンを見れらてしまったのだ。
 本当だったら、今日くらいは曜ちゃんとは顔を合わせたくはないのだけれど、その今日こそが曜ちゃんの誕生日なわけで。
 私は、女は度胸とばかりに、いつもの変らぬ顔でレジに入っていたのでありました。 
 先ずは、あのとんでもない状況の説明をしなくてはいけない。
 
「曜ちゃん、あのね、昨日のことなんだけどね」
 トレイとトングを持った曜ちゃんに話し掛ける。
「高校の時の友だちとご飯を食べる約束をしていて。そうしたらその子の彼氏とその友だちっていう人までやって来て」
 彼女と二人だけでご飯を食べるつもりだった私は、心底驚いた。
「それで、その友だちって人が、帰り私を送るなんて言い出して」
 何度も断ったのに、帰る方向が同じだからって言ってその人はついてきた。
「もう、嫌で嫌で。だから家に電話してお兄ちゃんに駅まで来てもらおうって思ったのに、お兄ちゃんってばいなくて」
 兄は妹の大ピンチだっていうのに、向田さん絡みの用事があったようで留守だったのだ。
「それで、なんか、あんなことに」
 あぁ、思い出す度に悔しくなる。
 ただ触れただけだけれど、相手の唇の感触は今でも覚えている。
 
 曜ちゃんは、ベーコンエピとサンドイッチをトレイに載せたあと、 ガラス張りの小さな冷蔵庫からカフェオレの缶を取って、またトレイに載せた。
 私からは、曜ちゃんの背中しか見えない。
 私の話が聞こえているんだかどうだか、そんな反応さえ読めない。

「わぁ、ママ! パン、パン」
 子どもの高い声とともにドアが開き、それと一緒にその子のママさんがお店に入ってきた。
 常連さんだ。
「いらっしゃいませ」
 曜ちゃんから視線をお客さまの方に移す。
「あぁ、琴ちゃんパパだぁ」
 その子が曜ちゃんを見て叫ぶ。
「おはよう」
 曜ちゃんがやさしい顔でその子に挨拶をして、その子のママにも小さくお辞儀をした。
「おはようございます、今朝も寒いですね」
 そう言いながら、常連ママさんは次々とトレイにパンを載せ、その勢いのままレジに来た。
「お先にいいのかしら?」
 ママさんが、私と曜ちゃんに尋ねるように言ってきた。
「はい、どうぞ」
 曜ちゃんの返事を聞かないで、私はレジを打ち出す。
 レジを打ちながらも、しっかりと意識は曜ちゃんに向けていた。
 
 
「可愛い子だったね」
 曜ちゃんにそう声を掛ける。
「あぁ」
 そういったことには、曜ちゃんはちゃんと返事をしてくれる。
 曜ちゃんには、琴ちゃんという可愛い娘がいる。
 曜ちゃんは奥さんと離婚したあと、娘の琴ちゃんを連れて生まれ育ったこの町に帰ってきた。
 そして、私はというと、曜ちゃんが琴ちゃんのパパになるうんと前から、曜ちゃんのことが好きだった。
 長い長い片想いだ。
 けれど、最近は、このままではいかんと思い、なんとか曜ちゃんの生活の中に入り込みたいと、あれこれトライをしているのでありましたが。
 ……結果は、ご覧の通り。
  
「曜ちゃん」
 曜ちゃんが選んだパンのレジ打ちをしながら、名前を呼んだ。
 心臓が痛いくらい大きく動いているのがわかる。
「なんですか」
 曜ちゃんは、ポケットから小銭入れを出し、返事をしてきた。
「あの、さっきの話。曜ちゃんに聞こえていたかどうかわからないけど、つまりは、あの人と私は何も関係がないってことです」
 指先が震えているのがわかる。
 レジのキーを押し間違えないように、いつもよりもゆっくりと作業をする。
 そして合計金額を曜ちゃんに告げる。
「曜ちゃんは、私が曜ちゃんにいろいろかまったり、こんな風に説明をしたりすることに、意味はない思っているかもしれないけど。 曜ちゃんがお兄ちゃんの友だちだからとか、そんな風に思っているかもしれないけど。そこには、ちゃんと意味があって」
 曜ちゃんが私に五百円玉を渡してきた。
「はい、五百円お預かりしましたので、二十円のお返しでございます。―――― だから、それは、私が」
「ちょっと待て」
 曜ちゃんが言う。
「由梨子」
 曜ちゃんが、いつもと違う真面目な声で私の名前を呼んできた。
 声だけじゃなくて、曜ちゃんの表情もいつもと違った。
「いらないんだ」
 二十円を持ったまま、私は動きが止まる。
 ――― いらない、って。
「お釣りが?」
 そう言って、二十円を持った手を少し高くした。
「いや。釣りは、いる」
 そう言うと曜ちゃんは、私が二十円持った手の下にその骨ばった大きな手を広げた。
 
 私の手から十円玉が二枚。
 曜ちゃんの手のひらに落ちていく。
 
「そういった感情。いらないんだ」
 曜ちゃんはそう言うと、その二十円を小銭入れじゃなくて、ポケットに突っ込んだ。
「別に、由梨子がどうのってことではない」
 そう言うと、曜ちゃんはパンの入った袋をレジから取った。
 そしてそのまま、お店から出て行ってしまった。
 
 
「バケット焼けました!」
 奥のドアが開いて、兄が肩にパンの入ったトレイに載せて入ってきた。
 何も知らない兄は、お店の棚にバケットを並べだした。
 「今日もいい具合に焼け……」と言った兄の顔が、私の顔を見てぎょっとした表情に変った。
「おまえ、どうした?」
 バケットを手早く棚に並べた後、心配そうな顔をして兄が私の顔を覗き込んできた。
「お兄ちゃん」
「はい」
 兄が真面目な顔で私を見る。
「ダメでした」
「あ?」
「ふられました、曜ちゃんに。……二十円にも負けちゃったよ」
 
 二十円は曜ちゃんの手の中に、ポケットの中にだって入ることが出来たけど。
 私はダメだった。
 ちゃんとした告白さえも受け取ってもらえないままに、私はふられてしまった。
 

 兄は、大きな体を左右に揺らしながら、低く唸り声を上げ出した。
 熊みたい、なんて兄の様子をぼんやりと眺めながら、頭の片隅で曜ちゃんへのケーキの処分の仕方についてあれこれと考えた。
2007/4/28 2020/10/19




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次話からは、曜と由梨子の周りの人の恋模様も絡んでの物語に。 inserted by FC2 system