いつしか街は、冬模様。街路樹は葉を落とし、茶色い幹がさみしげだ。
テレビや雑誌は、バレンタイン一色だけれど、私にはそれよりも大切なイベントがあったのだ。
そわそわした気持ちで、私は大好きな曜ちゃんの背中を見つめる。
曜ちゃんは、細い体を折り曲げて、サンドイッチを選んでいる。
「ねぇ、曜ちゃん。ケーキを焼いてあげようか?」
何年も言い出せなかった台詞が、ようやく日の目を見た。
曜ちゃんがちらりとことらを向いた。
曜ちゃんは、お父さんの設計事務所で働いているのだけれど、年末からずっと仕事が忙しい。
彼の顎には、珍しくもうすっらと髭まで生えていた。
「ついに経営難か。ケーキも売り出すことにしたのか?」
曜ちゃんは、トングでクリームチーズとトマトのサンドイッチを掴むと、トレイの上に載せた。
そして、そのまま私のいるレジまでやって来た。
「うちは、ケーキは売らないよ」
レジに曜ちゃんの買ったものを打ち込む。
「はい、四百円。―― ケーキは、ほら。今、私が習いに行っているの」
そうなのだ。
実は私は、今年に入ってからお菓子教室に通っているのだった。
「五百円お預かりします。百円のお返しです。―― 曜ちゃん、お誕生日だから」
曜ちゃんは、ニ月生まれさんだった。
「あんまり甘くないケーキを習ったの。ココア風味なんだけど。琴ちゃんもココア好きだし」
琴ちゃんは、曜ちゃんの一人娘で四歳だ。
離婚した曜ちゃんは、生まれ育ったこの町に娘の琴ちゃんを連れて戻ってきたのだ。
「だから、いいかなぁなんて。……ちょ、ちょっと、曜ちゃん。話がまだ途中だよ」
人の話を背中でビシッと跳ね返しながら、曜ちゃんは手をひらひらと振って店から出て行ってしまった。
「泣けるね」
厨房から兄が、焼きたてのバケットをトレイに載せて出てきた。
たちまち店内に香ばしい香りが広がる。
兄は、うちのパン職人だ。
「まぁ、あいつも天邪鬼だから」
兄は、そう言いながら、丁寧にバケットを並べ出した。
「由梨子が本気なら、地道にいくしかないね」
私の片想いを大昔から知っている兄は、普段はそんなことに関心がないような素振りを見せながらも、たまに
こういったことを言ってくる。
「お兄ちゃんてば。ほんと、たぬきオヤジなんだから」
空振り続きの片想いだ。こんな場面は、見られなくなかった。
「まぁ、作ってみなよ、ケーキ。あいつは、おまえの言ったことなんて忘れているかのような顔をして、自分の誕生日の日も
ここにパンを買いに来るんだろうから。そうしたら、無理にでも押しつけちゃえばいいさ」
兄と曜ちゃんは、ずっと仲が良かった。
その兄が言うなら、それはそうなのかもしれない。
「ついでに曜に、おまえ自身も押し付けちゃえ」
「……へ?」
兄の言葉に目が点になる。
「由梨子さぁ、人生なんてたったの一度きりなんだぜ。
なのに、一体なにを迷って立ち止まっているんだぁ?
やるときゃやんなきゃ、どんどん時は過ぎていくんだって。全く、おまえを見てると腹が立ってくるよ」
兄はそう言いながらも、私を見るわけでもなく、どこか遠くを見ているようで。
よし! なんて、掛け声とともに、白い作業着を脱いだかと思うと、シャツ一枚になった。
「おまえを見ていたら、俺もこのままじゃいかんと思ってきた」
そう言うなり、バケットを一本持つと、ぱっと私の方を見た。
そしてバケットを、投手に向かって予告ホームランを宣言するときの様に
こっちに向けてきた。
「向田 沙希にプロポーズしてくる」
兄は私にそう宣言すると、店の前につけてあった自転車にまたがって、いなくなってしまった。
これは、大ニュースだ。
あとで母に報告しないといけない。
向田 沙希さんは、ご近所でお肉屋さんの看板娘だ。
兄とは同じ年で、子どもの頃からの幼なじみでもある。
けれど、兄は向田さんを「生意気な女だ」って、毛嫌いしていなかったっけ?
そもそも、プロポーズって、付き合っている恋人にするもので、こんな風に場当たり的にするものなのだろうか?
人って、わかんないものだ。
ふと顔をあげると、ショウウインドウのむこうに見える梅の木に、ピンク色した小さな花が咲き始めているのが見えた。
ニ月は寒いけれど、静かに春の準備を始めている。
季節が、動き出しているのだ。
ケーキ。
がんばってみよう。
そうよね、一度きりの人生だもん。
ダメでもともとで、ぶつかってもいいのかもしれない。
今までみたいに何もしないよりも、ずっといい。
そうしないと、私はいつまでたっても、ここで立ち止まったままなのだ。
今度こそ、結果はどうであれ。
好きな人に好きと言える自分になりたい。
2004/2/4 2020/10/17 加筆修正