いつもぼんやりしている、とか。
頭の上をたんぽぽの綿毛が飛んでいる、とか。
人は私のことをそんな風に言うけれど。
私だって。
人に言えない悩みを持つ日々を、送っていたりするのだ。
来店を告げるベルが鳴る。
ここは、地元の小学校のそばにある、家族経営の小さなパン屋だ。
父と兄がパンを焼き、販売は主に私がしている。
「……よっす」
「おはよう、曜ちゃん」
「いらっしゃいませ、だろうが。売り子姫」
店に来たのは、やや猫背で背の高い曜ちゃんだ。
今朝も変わらず、低血圧そうなテンションの低い顔をしている。
曜ちゃんは、私の三歳年上の兄の同級生だ。彼のお父さんが経営する設計事務所で働いていた。
そして、思わずため息が出るほど、今日も曜ちゃんはかっこいい。
スタイルがいいのか、センスがいいのか、たはまた惚れた弱みなのか。
とにかく、なにを着ても様になるのだ。
兄のようにTシャツしか似合わず、たまにスーツを着ると七五三になってしまうタイプとは、根本的になにかが違うのだろう。
一方、私は長い髪を後ろで一つに結んで三角巾を被り、長袖の白いシャツにベージュのエプロンといった服装だ。
背は、百六十三センチある。勤務中は化粧もろくにしないので、二十五歳の実年齢よりも幼く見られるようだった。
曜ちゃんは、トングでコロッケパンとサンドイッチを取った。コロッケパンは、曜ちゃんの好物なのだ。
それを横目で見ながら、私はカウンターの中で、溜まっていたトレイを拭いた。
「曜ちゃん、ドーナツが揚げたてだよ」
「うまそう。シナモンとプレーンとチョコレートとストロベリーか。お勧めはどれ?」
「基本のプレーンと冒険のストロベリーかな」
「シナモンとチョコにする」
曜ちゃんが、パンの載ったトレイを会計用のカウンターに載せた。
「ひとの意見を尊重しないなら、聞かないでよ」
「尊重して決めたんだろう。ほら、ぼーっとしてないで、会計して」
レジを打とうとしたとき、カウンターの内側に貼り付けた小さなカレンダーに目がいった。
「あっ。今日」
「何だよ」
「結婚記念日だね」
十月十日の今日は、もと体育の日でもあり、曜ちゃんの結婚記念日でもあった。
「『おめでとう』なのかな?」
「あ〜?」
「うーん、なんて言えばいいんだろう」
「何も言うな、ボケ。早く会計しないと金を払わねぇぞ」
「ごめん。ごめん」
曜ちゃんが選んだパンを見ながら、レジを打つ。
コロッケパン
ドーナツ ニ個
サンドイッチ
「大体な、離婚した奴にむかい、結婚記念日だなんて言うな」
「残念、だったね」
金額を曜ちゃんに告げ、パンを入れるべくビニール袋に手をかける。
「そういえば曜ちゃん。うちのお店のショップバッグを持っていなかったっけ」
うちのパン屋では、エコロジーとお客様のリターンを狙い、特製の布袋を用意していた。
二百円でこの袋を買ってもらい、次回からこの袋を持参してもらえば、合計金額から五%を引くサービスをしているのだ。
「持ってない。いや、うちの母さんは持っているのか?」曜ちゃんが首をかしげた。
「でしたら、差し上げます。私からのプレゼント」
カウンターの下から、お店のロゴが入った生成りの袋を取り出す。
あとで、袋代をレジに上げよう。
「その袋。まさか『結婚記念日』のお祝い、なんて言うんじゃないだろうな」
曜ちゃんが皮肉な笑いを浮かべる。
「えへ。ばれた?」
「このアホ娘が」
布袋のとってを曜ちゃんの方に向ける。
曜ちゃんが、千円札を出してきた。
それをレジに入れて、私はお釣りを曜ちゃんに渡す。
毎回少しだけ、私の指先は、曜ちゃんの手の平に触れる。
「おまえ、いつまで『売り子姫』やってんの?」
袋を持った曜ちゃんが、私に聞いてくる。
「いつまでって、夜は八時までだよ」
プッと、曜ちゃんが笑う。
「俺が言いたいのは『山下 由梨子さんもよいお年頃になったけど、お嫁にもいかないで一体いつまでこのお店で働いているんでしょうね』
って意味のこと」
「お嫁に行ってもここで働けるもん」
「まるで、相手がいそうな台詞」
「そんなの教えない」
「別に聞きたくない」
「そっ」
聞きたくないって返されて、悔しいんだか淋しいんだか。
でも、聞かれたところで話すことがないわけだから、まぁ、良かったと言えるのかもしれないけど。
「あっ、由梨子。昨日、琴と遊んでくれたんだってな。いつもサンキュ」
「いいの。お店も、休みの日だったし」
曜ちゃんの優しい笑顔に、胸が苦しくなる。
そんな私の気持ちなど知りもしない曜ちゃんは、手をひらひらと振って店を出て行った。
ガラス越しに、曜ちゃんの長い足が道路を横切っていく姿が目に入る。
琴ちゃんは、四歳になる曜ちゃんのひとり娘だ。
五年前に突然この町を去った曜ちゃんは、その二年後に、琴ちゃんを連れて戻ってきたのだ。
そして、ここ一年くらいだろうか。
曜ちゃんは休みの日に、琴ちゃんを連れてこの店に来るようになった。
その縁で、私は時々、琴ちゃんと遊ぶのだ。
だからって、曜ちゃんとの関係が、近くなったわけじゃない。
むしろ、曜ちゃんの琴ちゃんへのゆるぎない愛情を知り、つけいる隙なんてないのだと、思い知らされるのだ。
昔からそう。
いつも私は、曜ちゃんを見ているだけの傍観者だった。
そう知りつつも、貪欲に、曜ちゃんからの気まぐれな声掛けに期待して、今日もお店に立つのだ。
その有るかないかの一言の為に、私はこのお店から離れられない。
曜ちゃん。
―― 曜ちゃん。
私なら、曜ちゃんを大切にするのに。
私なら、口の悪い曜ちゃんも、琴ちゃんを愛おしむ曜ちゃんも大切にするのに。
どんな曜ちゃんだって、大切にするのに。
なのに、私にはその役目は回ってこない。
「うー。進歩ないぞ、私」
今日は十月十日。
もと体育の日。
曜ちゃんの結婚した日。
そして。
曜ちゃんが、私のものにはならないと決定的になった日でもあった。