月と手を繋ぐ

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 近所にうまい日本料理屋ができたから、貴和子(きわこ)も来いよと、誘ってきたのはニイだった。
 彼も夫もいない私は、すぐにOKの返事を出す。
 土曜日の午後六時。
 彼女持ちの窪田も、子持ちの曜も都合がついたようで、私が来た時には、男三人で酒を飲み始めていた。
 曜の隣に座る。私の前にはニイがいて、彼の隣には窪田が座っていた。
 私と曜とニイと窪田の四人は、高校の同級生だ。
 高校時代から、どういうわけだかウマが合った私たちは、卒業後も、思い出したかのように連絡をとって、 こうして集まっていたのだ。
 
「聞いてくれよ。もう大変なんだって」 
 今日の主役はニイだ。
 私たちに声をかけただけあり、話したいことがあるようなのだ。
 ニイは家族でパン屋を営んでいる。彼の人懐っこい顔を見ると、私は柴犬を思いだす。
「聞いてくれじゃないよ。こんな時間から集合かけて、店はいいのかよ。まだ、営業中だろう」
 そう言いつつも、曜は冷酒をくいくい飲んでいる。
 彼は四歳の女の子の父親だ。奥さんとは、離婚している。
「いいの、いいの。あとは片づけだけだから、親父に頼んできた。 最近、親父は、自分だけさっさとあがってさ。 サユリちゃんの歌を聞きながら、ビールばっかり飲んでいるんだよな」
「ニイもほどほどにしておけよ。明日も朝早くから仕事だろう」
「今夜は、雪ですか? 雹ですか? 曜に説教される日が来るとはね」
「今日はニイの驕りね」
 勘弁してよと、情けない声を出すニイを無視して、曜は運ばれてきたレンコンのきんぴらをつまみだした。
 窪田は、ニイと曜のやりとりを幸せそうな顔で眺めている。
 そして、そんな窪田をこっそりと盗み見る私。
 懐かしくも悲しい、昔からの構図だ。

 窪田は、王子様だ。

 仕立ての良い服に、穏やかな表情。感情のアップダウンが激しいニイや、万年低血圧顔の曜とは違い、何もかも安定している。
 長いつきあいになるけれど、私は窪田が焦ったり、困ったり、ましてや怒っている姿を見たことがなかった。
 彼は、私の長年の片想いの相手なのだ。

 曜が注いでくれた冷酒を口に運ぶ。日本酒は、飲むと唇がひやりとする感じが好きだ。
「それで、ニイ。そんなに何が大変なのかしら?」
 私の質問に、待っていましたとばかりに、ニイが話し出す。
「いや、だから。あいつの弟たち。ガードが固いんだか緩いんだか、態度が一貫してなくてさ」
「弟? 誰の弟よ」
「だから……ほら。向田 沙希だよ」
「彼女の弟とニイに、どんな関係があるの? ガードって、どういう意味?」
「沙希に結婚を申し込んだ」
「ニイが、あの向田 沙希さんに? 冗談でしょう。 だって、ニイ、なにかにつけて彼女に絡んでいたよね」
「そうかなぁ」
「あれ? 違った?  少なくても、私にはそう見えたけど……。 文化祭だったかな?  委員会で、ニイと向田さんの意見が対立して、ニイが彼女を涙目になるまで論破したのを、覚えている。 私だけじゃなくて、けっこう周りも引いていたよ」
「意見を戦わせるのって、悪いことじゃないだろう。あれも、一つの対話だよ」
「なにごとにも、限度ってものがあるの。 あんたって、小学生男子的愛情表現をする男だったのね。好感度が下がったわ」
「ほんと、ニイはおばかだねぇ」と、窪田も言った。
「面目ない」 
「僕たちに言われてもねぇ。弟さんたちはともかく、向田さんとは話せているの?」
「好きだけど、結婚しないって言われた」
「でも、つきあっているんだよね」
「つきあってないよ。でも、ほら、な。わかるだろう?」
「……ごめん、ニイ。僕には、わからない」
 さすがの窪田も、苦笑いだ。
「ニイ、私の理解によると、つまり、あなたは、向田さんとつきあっていないのに、ある日突然、結婚を申し込んだというわけね」
「そうだよ」
「なにがあったの?」
 ニイがちらりと曜を見た。どういうこと?
「ニイは、十年、いや二十年か? ともかく、遅いんだよ」曜がそっぽを向いた。
「あらやだ。ニイってば、いつから向田さんが好きなのよ」
「そうだなぁ、保育園かな」
「なに、それ。怖い。そんなに好きなのに、あんな態度? あなたの頭の中、どうなっているのよ」
「好きでも、動けないときってあるんだよ。 近いと、近すぎると、なにかとやっかいなんだよ」
 ニイの言いたいことはわかる。大切だからこそ、告白できない。 私だって、窪田に告白する予定はないのだから。
 想いの矢印が同じ方向を向くなんて、幻想だ。 
 けれど、そうだとしても、ニイの場合はやりすぎだと思った。
「向田さんがニイを好きだと言ってくれたのが、せめてもの救いね。というよりも、奇跡だわ。 私が彼女なら、ニイの告白さえ拒絶するかもしれない」
 ニイがぎょっとした顔をした。
「好きだからいじめる的な? それ、男子の常識なの? だとしたら、いい加減やめてほしいわ。 まかり通らないから。女の子だって傷くのよ」
「そうか。貴和子も女だったか」
「あんたね。そーいうこと言っていたら、一生向田さんに相手にされないわよ」
 私が怒りだすと、窪田が「ニイが悪い」と味方してくれた。 
「しかし、ニイも前途多難だね」
 窪田が暢気な声で言う。
「だったら、おまえはどうなんだよっ。年上の美人の彼女さん、元気?」
 窪田が話し出す。聞きたくない。
 あぁ、でも、気になる。

 そのとき、店の入口店がにわかが煩くなった。六十代と思われる、おじさん五人組が入って来たのだ。
 おじさんたちは、足音も煩ければ、声もでかい。
 その声に紛れて、窪田の「結婚」って言葉が耳に飛び込んできた。
 なんですと? 窪田の方へと視線を送ると、彼の後ろを歩いていた五人のうちの一番背の低いおじさんと、目が合った。
 すると、そのおじさんは、なにを勘違いしたのか、私たちのテーブルに近づいてきた。
 おじさんは、窪田と曜の側に立つと、好色な目つきで私を見てきた。
「えらい、べっぴんさんだな。どうだい、奢ってやるから、こっちで一緒に飲まないかい」
 気分が一気に下がる。
 私のはっきりしている顔立ちが災いするのか、この手の誘いは珍しくない。
 そして、こんな相手ほど、バッサリはっきりと断らないと、ずるずると面倒になるのだ。
 私が口を開こうとしたとき、それを止めろとでも言うかのように、曜の右手が私の顔の前に下りてきた。
 黙った私のかわりに、窪田が「おじさん、悪いけど」と、話し出す。
「彼女は、おじさんたちと一緒には飲まないよ。 見てわかると思うけど、彼女はもてない僕たちのマドンナなんだ。 もし、無理にでも連れて行くというのなら、この男が大暴れすると思うけど、それでもいい?」
 窪田がさわやかな笑顔で、ニイを指した。ご指名のニイが椅子から立ち上がる。 おじさんとニイは、ゆうに三十センチは身長差がありそうだった。
 おじさんは、窪田とニイの顔を交互に見ると、もごもご言いながら自分たちの席へ戻っていった。
 座るなりニイが「ここだけの話し」と、わざとらしく声をひそめる。
「俺さ、前々から、この四人のなかで一番怖いのは、窪田だと思ってた」
「ちょっと、四人ってなによ。なんで私も入っているのよ」
「貴和子が一番弱いのは、よくわかっている」
「ニイより弱くしないでよ。この、二十年もの」
「二十年ものってなんだよ。俺は、ワインか」
 興奮したニイを、窪田がなだめだす。    
 曜が、私の小さなグラスに、さらに日本酒を注いでくれた。 
 その注ぎ方が、イヤラシイ。
 こいつは、私が窪田に助けてもらい、ときめいたことに気がついたのだ。
「あんたって、嫌な奴ね」
 ぼそっと言うと、曜は眉を上げた。
「貴和子も十年遅い組だな」
「曜は、どうよ」
「俺は、そういった話からは、卒業組なんで」
 卒業?
「なにか楽しそうな話が聴こえたけど、教えてよ」
 窪田がいきなりこっちの会話に参加してきた。
「言わない。窪田には関係ない話なの」
 好きな男に、素っ気なくしか返せない。そんな自分に落ち込み、グラスを空けた。

 ニイは曜からの忠告を聞き入れ、曜は娘の琴ちゃんが待っているからって理由で、飲み会は早々に終了した。
 かくいう私も、明日は姉とお出かけだ。
 姉に、結婚式の引き出物選びの同行を、命じられているのだ。
 姉の愛しのダーリンは、ただいま海外に出張中だった。
 
 店から駅までの夜道を、窪田とふたりで歩く。
 卒業してもこうして集まれるのは、地の利もあったんだろうなと、思った。
 曜とニイほど家は近くないけれど、私も窪田も、彼らとはまぁまぁ近い場所に住んでいたのだ。
「僕は、ニイが向田さんのことを好きだなんて、知らなかったよ」
「私もよ。ニイも愚か者だよね」
 ニイが向田さんを好きだったという「正解」について、あの場で私は散々ニイをいじめた。
 けれど、落ち着いて考えてみると、誰にでもフレンドリーなニイが、 彼女にはそうじゃなかったという事実と理由に、彼の情けないほどの不器用さを感じ、少しだけ同情した。
「好きなら好きって、言えばよかったのにな」
「……まぁ、そんなに単純なことでもないのかもね。特に、あのふたりは家も近いし、家族同士も知り合いらしいし」
「好きな子に、二十年以上もなんの意思表示もしないって。ニイは、辛抱強いんだか、意気地がないんだか」
 窪田なら、どんな関係であろうと、好きなひとにはアプローチするだろうからね。
「窪田には、縁遠い世界かもね」
 告白しても、断られる場合もあるのだ。だから、言えないのだ。
 窪田は、自分が好きになった相手には、好かれる人生を歩んできたのだろう。 だから、受け入れられない恐ろしさを知らないのだ。

「あのさ。さっき、貴和子たちが話していたあれ、やっぱり聞かせてよ」
「なんだっけ?」
「ほら、曜と」
「あ!」
「どうした?」
「見て見て、窪田! ほらほら、でっかいお月さま!」
「ほんとうだ」
 空には、大きくて黄色いまん丸な月が浮んでいた。
 美しすぎて、恐ろしい。
 けれど、見るのをやめられない。

 月は、まるで窪田みたいだ。

 なのに、ふいに、窪田とは全く関係のない、子どものときの思い出が蘇ってきた。
「私ね、月と手を繋いだことがあるんだ」
「月と? へぇ。聞かせてよ」
「昔、昔のその昔。私が小学生だった頃、かな。 学校を休んだクラスメイトに渡さなくちゃいけないプリントがあったんだけど、届けるのを忘れて遊び呆けていたの。 夕方、帰宅してから気がついて、慌ててその子に家に行ったわけ。 冬だったのかなぁ。出かけたときは、そんなに暗くなかったのよ。 それが、その子の家から帰るときには、もうどっぷりと暮れててさ。心細くなったわけ」
 窪田の眉間に皺が寄る。
「貴和子の親は? 相手の家の親だっていただろう? 帰り道を送ってくれるとか、なかったのか」
「私ね、親には内緒で出かけたの。 だって、言ったら怒られるでしょ? ただでさえ、できのいい姉とは、いつも比べられてお説教されていたのよ。 それに、休んだ子の家は共働きで、大人がいる気配なんてなかったよ」
 私がそう言うと、窪田がしぶしぶといった感じで頷いた。
「暗い道を歩いて帰る私の目に、大きな大きなお月さまが映ったの」
 あんな風にねと、窪田に今見えている月を指す。
「誰もいない暗い道だけど、お月さまがいると思うと安心してさ。夜空に向かって手を伸ばしたんだ、こんな風にね」
 窪田の前で、私は月にむかい手を伸ばした。
「そして『ゆかいに歩けば』を歌いながら、お月さまと手を繋いで歩いて帰ったってわけ」
 歌のさびの部分を、窪田に歌って聞かせた。 
「あんな遠くにあるお月さまだけど、あのときは、とても近くに感じられたんだよね。月なのに、変だよね」
 窪田は穏やかな笑顔を私に向けて「全然」と、笑ってくれた。
 
 ふいに流れてきた雲で月が隠れ、私の指先から月が消えた。
 すると、そこに窪田の手が伸びてきた。
 彼は、私の手を取った。
 窪田は私の手を握ると、そのままゆっくりと下ろした。
 
「僕が代役ってことで」
 窪田が言う。 

 月明かりが消えた夜。
 私の乙女な表情は、夜が隠してくれた。
 無口な私を隣に置きながら、窪田は口笛でさっきの歌をふきだした。

 彼女がいる男と、手を繋いでいいのか。
 窪田にとって、こんなのは意味もないことなのか。
 
 窪田の口から「結婚」って単語が出てきたのは、ついさっきのことだ。

 結婚「する」んだろうか?
 結婚「したい」んだろうか?
 結婚「しない」んだろうか?

 いずれにせよ、遠い。
 こんなに側にいるのに、私と窪田の距離は、果てしなく遠かった。
 

 月灯りが消えた夜。
 私は、窪田という月と手を繋いだ。
 

2005.8/31 2020/10/23 加筆修正




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