水の中を、ただひたすら、泳ぐ。

 水の中、なんていうと、つい「静寂」なんて、ワープロじゃないと漢字が出てこないようなかっこいい響きの単語を思い浮かべてしまうけれど。

 静かで、寂しいなんてことは、ない。

 水の中にも、じつは、音がある。

 自分の手や足が水を掻く音。息を吐くときのごぼごぼ言う音。プールの壁を蹴るときの、ちょっと鈍い音。水の中で声を出したら、テレビのスローモーション再生のときみたいに、ぐもぐもといった感じの中途半端な音になる。振り上げた手がはじいた水しぶきが、ちょっと遅れてパチャパチャいう音もおもしろい。

 水銀灯でライティングされた水面は、ゴーグル越しに見上げるとまるでラムネ色をしたゼリーみたいで、幻想的だ。でも下を見ると、プールの底のコースラインの何の変哲もない模様や、排水溝の金属のふたなど、現実的というか、無機質というか、そんな印象を強く受ける。

 あたしは、今、幻想と現実の間を泳いでいる。

 そんな感じが、いつも楽しくて、疲れていてもつい来ては、泳いでしまうのだ。

 夜の九時を過ぎると、駅からちょっと離れたこのスポーツクラブのプールで泳ぐ顔ぶれはだいたい決まっている。もちろん名前も知らないし、知るつもりもない。みんなただもくもくと泳ぐ。
 ぶよぶよの中年太りのおじさんもいれば、やけに派手な模様の水着をきたおばさんもいる。あたしのような仕事帰りのOLは、一階下のジムやエアロビ教室なんかにはたくさんいるみたいだけど、プールに泳ぎに来るのは意外と少ない。ほかに、あたしと同じ年くらいの男性がちらほら。水の中では、みんな同じようにふやけて見える。あたしのおなか周りの肉も、ぶよぶよに見えているのかなぁ。

 いつの頃からか。火曜から木曜のどれかに、あたしと同じ夜遅い時間帯に来て、ざざざーっと一時間ほど泳いで帰ってゆく、やけに日焼けした男の人がいることに気づいた。泳ぐスピードは、鍛えられた体つきに似合わず、あまり速くない。というより、ほとんどあたしと変わらない。あたしは中学のとき水泳部にいたことがあって、クロールだけはちょっとだけ自信があるが、本格的に水泳をしているひとのように、見ただけでわかるくらい泳ぎが違うというわけでもない。中途半端に泳げる、という程度。それでも、一キロくらいなら休まずに泳ぐことはできる。

 週に一回か二回、彼ととなり同士のコースで泳ぐことがあった。勝手ながら、彼はいいライバルになった。あたしは彼が隣に来ると、ひそかな対抗意識を燃やして必死に彼に追いつき、追い越そうとクロールの手足を大きくのばした。目的を持って身体を動かすのは気持ちがいい。一時間くらいはすぐに経った。

 名前も知らない、日焼けしたぷよぷよした筋肉の男。あたしはときどき、水の中から視線に気づかれないように彼を観察した。彼は何か他のスポーツをしていたのだろうか。水泳選手にありがちな筋肉質のごつごつした逆三角形の身体ではなく、どこかぷよぷよとした上半身の脂肪の下に、昔のスポーツの名残の筋肉が隠れている、という雰囲気だった。きっと球技か何かやってたんだろう。泳ぐ姿は、いかにも一生懸命、という感じで、手足の動きはいつも豪快だ。

 いつの間にかあたしは彼の来るのを心待ちにするようになっていた。彼と時間が合わない日は、平泳ぎや背泳、みようみまねのドルフィンキックなんかでまるで時間を潰すかのように泳いで帰る日もある。もうちょっとで三十、独身で友達もいない、水泳が唯一の楽しみ、なんていううさんくさいOLに、水の中で追いまわされてるなんて知ったら、きっと来なくなってしまうだろうな。でもまぁ、日焼け男もゴーグルをはずした顔はそんなにハンサムでもなかった。きっとそんなにもてたりなんかしないだろうし、あたしも別に彼に恋心を燃やしていたわけではなかった。ただ、彼が来たのを見つけたときは、わけもわからず心がはずんだ。

 誰と競い合うわけでもなく、ただ黙々と事務処理をこなす毎日。会社を出て1DKのアパートに帰っても、独り。生きてて良かった、という実感が薄く、ただ時間だけがあたしのまわりを流れていく。心が退屈で蝕まれていくようだった。何でもいいから、熱中するものが欲しかった。誰かと本気でぶつかり合いたい。たとえば、スポーツか何かで思いっきり闘って、「やったぁ!」とか、「悔しい!」とか言ってみたい。闘志とか、憎しみとか、悲しみとか、そういう熱い感情を激しく燃やす時間を持たないと、自分が機械になってしまうような、そんな恐れに似たものが、あたしの心のどこかにあったのかもしれない。

 でも、そういったスポーツなんかは、当然だが、相手が要る。テニス、バドミントン、卓球、お手軽に始められるように見えるが、いざやろうとすると、面倒くさいのだ、人間関係が。知らない人とお友達になって、クラブやサークルに入って・・・。考えるだけで気が滅入る。その点、こっちが勝手に気合いを入れて隣の名前も知らない男とクロールで競争するだけなら、平和なものだと言える。しかし、彼と知り合って、友達になって、となると話は別だ。とたんに、億劫がるあたしの別の顔が、ほのかな好意や、はずんだ心をしかりつける。

 あたしの中にあるこんなひねた性格の部分が、恋や幸せに縁遠い人生を送る原因だということは、人に言われなくても気づいている。でも、それもあたしなんだから仕方がない。九州にいる両親は、時折思い出したように「いい加減に結婚しろ!」と騒ぎ立てていたが、一度反抗心を燃やして、正月の帰省を土壇場で取りやめたら、以後何も言わなくなった。両親とは弟が同居しているし、もう二人も孫がいる。あたしにかまうより孫の世話でもしているほうが楽しいだろうなと思う。このまま一人で腐るように東京の街に埋もれていけばそれでいいのだ、という皮肉屋のあたしと、いつまでも大学の頃の失恋に傷ついてばかりいないで、新しい出口を探したら?という楽観的なあたしが、心の中でせめぎあう。自分が多重人格になったようで嫌になる。

 プールの水に浮かぶ時間は、そんなゆらゆらした人生の理想と現実の中をも、象徴していたのかもしれない。



 彼の名前を偶然知ったのは、温水プールの水さえ冷たく感じるようになった、十二月のある日のこと。紐を結ぶのにちょっと手間のかかるショートブーツを履こうとして、目の前に落ちているこげ茶色の財布に気がついた。たった今、誰かが落としたものだろう。こんな目立つ場所に?と思うくらい。まるでぽこんと置いてあるかのようだった。

 そのままクラブの受付に届けても良かったのだが、つい好奇心に負けて二つ折りの財布を開いてしまった。中には五万円ちょっとのお金のほかに、定期、写真入りの社員証、免許証まで、一切合財が詰まっている。
 でもあたしが驚いたのは思ったより多く入っていた金額にではない。とてもよく見慣れた社員証と、それに印刷されている顔写真だった。「中嶋武雄」。なんと、落とし主はあたしと同じ会社の社員だった。二つ上の階にある部署だ。あまり行き来がなく、仕事の関係も薄いので知らなかったのは無理もない。でもあたしは彼の顔を知っていた。いつも隣で泳ぐあのぷよぷよ日焼け筋肉男だったのだ。しかも住所は二丁目まであたしの住所と同じ。番地だけが違うのだから、歩いてすぐ近くなのだろう。何だかうす気味が悪い。

 思わず、「うわ〜」と独り言を言いながら、免許証の写真と社員証の写真を交互に見比べていると、頭の上から「あの・・・」と呼びかけられた。

 思わずびくっと、三文ドラマのこそ泥みたいに驚いてしまった自分が情けない。しかし、他人様の財布を思いっきり開いて、中をじっくりと見ていたあたしは、見上げた顔が右手に持った免許の顔と同じだという単純な事実に気づくのに、二秒ほどかかってしまった。

 「あの、それ、俺のです。」
 「あ、あ・・・。ここに、落ちてたんです。」

 ・・・気まずい。彼が中身をそれとなく確かめる間、あたしは顔を上げられずにブーツの紐を結んだ。早く立ち去りたい。けれども彼はやっぱり声をかけてきた。

 「あの、どうもありがとうございました。助かりました。見つからないかと思った」
 「いえ。・・・すみません、勝手に人のお財布いじくり回しちゃって」
 「・・・それで、その、ハダカで失礼ですけど」

 といって、彼は財布の中から抜き出したのか、四つ折になった五千円札をあたしに握らせた。

 「一割。お礼です。本当ならお食事でもご馳走したいんですが、初対面の男が相手じゃ、それもご迷惑でしょうから、現金ということで。気持ちです、どうぞ。」

 あたしがそんなもの、と言ってつき返す暇もなく、彼はぷよぷよ筋肉の身体を翻して走って出ていってしまった。

 強引なやつ。こっちの後ろめたさとか気にもしていない。こんなの受け取れないって。そんなことをぶつぶつ言いながら、アパートまでの道を歩いた。おそらく、すぐそばに住んでいるはずの彼もこの道を行ったに違いなかった。

 一晩悩んだ挙句、やっぱり、と思い切って、あたしは階段を上って彼のいるフロアに行った。彼を通路に呼び出し、この五千円札を返す。ただそれだけのことだ、と思っていたのだが・・・。


 あの日からほぼ一年後。あたしは彼と結婚した。結局返さずじまいになったあのときの五千円札は、フォトフレームに入れた初めて撮った二人の写真の裏に、大切にしまってある。彼はそんなことは知らない。

 財布を拾ったあたしが、同じ会社の社員だと知ったとき。
 その次の日、プールで声をかけたとき。(驚いたことに彼は隣りで追いかけ回すように泳いでいた女があたしだとは気づいていなかった。ゴーグルをはずした素顔を見られないように、などと気を使っていたのが良かったらしい。)
 そして、帰り道がまったく同じで、家がすぐ近くだと知ったとき。

 彼のめまぐるしく変わる表情は、あたしをとても楽しい気分にしてくれた。彼に恋をした、と気づいてから、二人の関係が深まるまでの時間は、あたしの親があきれるくらい短かった。

 結婚して会社を辞めた今でも、二人で待ち合わせてあのクラブのプールで泳ぐ。クロールはあたしの方がいまだにやっぱりちょっとだけ上手だ。思ったほどぷよぷよではなかった彼の筋肉は、それを大きく通り越してしまい。最近ぶよぶよになりつつある。

 勇気を出して飛び込んでみたら、久しぶりの、そして思いがけない恋愛は、温水のプールみたいに意外と温かかった。

 ぬるい水の中を、まだまだひたすら泳ぐ。理想と現実の間を、ふわふわと。・・・今は、二人で。

 人生も、そんなものかもしれない。





「らばーず」に参加して下さったゆごさんから短編小説をいただきました。

鹿の子が書いている「ご近所恋愛〜」を読んでくださったゆごさんが、ご自身の書き溜めた作品の中からそれに近いかなというこの作品を鹿の子に下さったのです。

ゆごさん、ありがとうございます。

また、ゆごさんの作品の感想は鹿の子まで。
よろしくお願いします。
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