まぼろしのごとくなる

 

 

 

 元亀二年、五月十二日。

 

 伊勢長島願証寺周辺には異様な殺気が満ち満ちていた。

 あちこちに築かれた砦には鉄砲隊がずらりと並んで敵を待ち受けている。しかし鉄砲を構える兵の様子は普段の(いくさ)の様子とはかなり違っていた。足軽兵や雑賀(さいが)衆にまじってにわか侍のようないでたちのもの、そして袈裟に白足袋というおよそ戦場には似つかわしくないものたちもいた。彼らは兵は兵でも僧兵。寺と法主を守るために戦に臨んだ兵たちだった。

 

 この日からさかのぼること二年、本願寺明け渡しを迫る織田信長と本願寺法主(ほっす)顕如(けんにょ)との間に、まさに雌雄を決しようとする戦の火ぶたが切って落とされたのである。それまで数々の一向一揆に手を焼いてきた信長が、ついに本丸である本願寺に攻め入る意味は大きかった。そして迎え撃つ顕如は全国の門徒に対し「戦に馳せ参じ、信長を討つべし。さもなければ破門である」との下知を飛ばすほどの気合の入れようだった。

 伊勢願証寺はこの石山本願寺の拠点として重要な役割を担っていた。

 

「田戸村の方に煙が上がっているぞ」

「きゃつら、火を放ったな」

「なんと、酷い。村には女子供もおるのに」

 遠くに立ち上る黒い煙を見て、兵の間からどよめきが起こった。

「静まれ」

 鉄砲隊を指揮する雑賀衆から鋭い声が上がった。

「よいか、気持ちはわかるが、今は待つのじゃ。既に柴田勝家、また氏家ト全らがここへ向かっている報がきておる。きゃつらは必ず来る。十分にひきつけて撃つべし。一網打尽じゃ。今は心静かにただ待っておれ」

 この激に皆一様にしんとした。

 

 江木(えぎ)円恵(えんけい)、俗名貞保(さだやす)もまた自分の手の中の鉄の塊に目を落とした。貞保は二十五歳。切れ長の瞳には強い意志の力が宿っていた。貞保は剃髪をしていない、いわゆる毛坊主であった。当時、得度しても寺に入らず、世俗の生活を送りつつ仏の道を歩む人々がそう呼ばれていて、貞保もまたそういうひとりであった。彼は京の都で家業の紺屋を手伝いながら、念仏を上げ、さらには刀、鉄砲の修行を毎日欠かさずに行ってきた。これは当時の真宗門徒にはよくある姿だった。

 

(すすめば往生極楽、退けば無間地獄)

 軍旗に染めぬかれたその言葉を貞保は口の中でつぶやいた。開戦から二年。信長は自らも津島まで出陣するほど、この戦にかけている。それはひとえに自分たち僧兵が恐いのだ、と貞保は思っている。自分たちが戦っているのは功を上げ出世するためでも、個人の利益のためでもない。阿弥陀如来のためなのだ。阿弥陀を守るためだったら命なぞ惜しくもない。信長はそれが恐いのだ。僧兵のことを「屍兵」であると言ったそうだ。仲間の屍を乗り越えて、怒涛のごとく押し寄せてくるさまを見て口にした言葉であるらしい。

 

 京の御所にさえ傲慢な信長をそれほどまでに恐れさせる自分たちの存在を、貞保は誇りに思って今日まで戦ってきた。そして阿弥陀の守りを得て、必ずや信長を倒し、この国を顕如の手で統一できる日が来ることを固く信じていた。

(ひとりでも多く仕留めてくれる)

 鉄砲を構える仲間の中には元農民も何人か含まれていた。妻や子供を村に置いて、この砦に駆けつけた彼らがどんな思いで黒い煙を見ているかと考えると、怒りのあまり貞保の体に震えが走った。それを抑えるために、貞保は懸命に口の中で念仏を唱えた。

 

 どのくらいの時がたっただろうか。目を閉じて一心に祈っていた貞保はふいに馬のいななく声を聞いて、はっと顔を起こした。すぐ近くの伊尾川を渡る水音も聞こえる。雑賀衆の頭領は鉄砲隊に手を上げて合図をした。六十丁もの鉄砲の火筒に一斉に火が入る。

 貞保の目に川を渡って来る最初の馬が見えた。合図はまだない。鉄砲の射程距離は四十間ほど。十分にひきつけて撃つ必要があった。貞保は狙いを定めようと銃身を動かしながら姿を追った。馬の後ろに足軽兵たちの乗った船が見える。合図は船が二十ほど見えたその瞬間に出た。

 五月の空に轟音が響き渡り、貞保は自分の放った弾がひとりの兵の首を撃ち抜くのを見た。

 

(まずひとりだ)

 貞保は狙い通りに撃てたことに満足し、すぐに後ろに下がった。第二陣に場所を明け渡すためだった。第二陣が発砲する間に、再び火薬を込め、準備をする。間髪入れぬ銃撃の連続に船上の兵たちは次々に的となって撃ち抜かれ、川へ沈んでいった。伊尾川はたちまち赤く染まり、死の川と姿を変えた。

 四回ほど撃ってから、前線へと出る指示が出た。貞保はなぎなたを手に、大声を上げながら突進していった。川の向こうには別の門徒たちが待ち構え、敵の退路をも奪っていた。貞保はそこに残っていたもの全員に端から容赦なく斬りつけていった。槍を手に貞保に向かってくるものもいたが、この不意打ちに完全に混乱状態に陥り、逃げ道を探して武器も捨てて走り回っているものが多かった。

 

 貞保はその逃げるものの背中にも斬りつけた。卑怯であるという意識は毛頭なかった。

(一匹残らず始末してくれる)

 貞保はその切れ長の瞳を充血させて、獲物を求める猛獣のように次から次へとなぎなたを振るった。疲れは微塵も感じなかった。

 目の端に撤退しようと手綱を引く馬上の武将の姿が目に入った。貞保は猛然とそこへ突進し、なぎなたを振り下ろした。

 

「うっ」

 なぎなたは武将の右手に食い込み、武将が痛みに顔をしかめるのがわかった。更に攻撃しようとする貞保の前に別の馬が割って入り「今のうちにお逃げなされ」と叫ぶ声がした。

「柴田かっ」

 貞保はかばわれた武将が柴田勝家であるのを直感して大声で叫んだ。かばった方の武将は貞保の前に立ちはだかった。

「追わせはせぬ。わしを倒して見せよ!」

「ええい、そこをどけ!」

 貞保はなぎなたを大きく振ると、武将に斬りかかった。武将の方も腕に覚えのありそうな男で、貞保のなぎなたは何度も払われた。しかし貞保は執拗にそれに食い下がった。武将の刀は次第に防戦一方になり、しまいには弾き飛ばされ、武将は馬から転げ落ちた。貞保はすぐに踏み込んで武将の具足になぎなたを振り下ろした。鮮血が飛んで、貞保の顔にかかる。それでも貞保は容赦をしなかった。

 とどめを刺そうとしたその瞬間、兜の下の武将の目と貞保の目が合った。武将は己の死を悟っていた。しかしその目は死に対しての恐怖で満ち満ちていた。貞保にはそれがいかにも臆病でこの場に似つかわしくない目に映った。

(往生際が悪いとはこのことだ)

 貞保は渾身の力をこめて武将の首になぎなたをつきたてた。武将の名が大垣城城主氏家ト全であることは、戦の後にわかったことだった。

 

 

 柴田勝家が負傷し、氏家ト全が戦死したことで、この日の戦は願証寺側の勝利に終わった。これにより信長は岐阜へ後退を余儀なくされた。ト全を斬った貞保は英雄だった。勝ち戦で僧兵たちも酒盛りを始め、口々に貞保の武勲を誉めた。

「お前のなぎなたは全く天下一品だ」

「顕如上人もさぞかしお喜びだろうて」

「顕如上人ばかりではないぞ。極楽浄土の親鸞聖人、蓮如上人もお喜びじゃ」

「今頃悔しがっている信長の顔が目に浮かぶわい。ああ愉快愉快」

 上機嫌で酒を酌み交わす僧たちを横目で見ながら、貞保は尚も遠くで上り続ける黒煙をじっと見つめていた。柴田たちはここへ来る前に、あちこちの村に火を放っていた。村にいる女子供はどうなったのだろうか。貞保の心に父や母を亡くして泣きながら村をさまよう子供の姿が浮かんでは消えてゆく。

「どうした? なんぞ気がかりが?」

 貞保は肩をたたかれてはっと我に返った。見上げると応実が心配そうに貞保の顔を覗きこんでいた。応実は京の山科本願寺の高僧で、貞保とは以前から顔見知りだった。貞保はいずまいをただして頭を下げた。

「いえ、ただ村の様子が心配で」

「おぬしも同じことを考えておったのじゃな」

「え? すると応実さまも?」

「ほんにひどいことをする。村のものには何の関わりのないことだというに」

 応実は膝をついて貞保の瞳を覗き込んだ。

「これは公には出来んが、わしは近いうちに村の様子を見に行こうと思うておる。おまえ、供をしてくれるか」

 応実は声を落としてそう言った。貞保は驚きを隠せなかった。

「それは危のうございます。信長残党がまだ潜んでいるやも知れません」

「ふふ。お前こそどうなのじゃ。皆には内緒で様子を見に行こうとしていたのではないのか」

 

 貞保は思わず返答に窮した。確かにあの煙を見るたびに胸苦しさを覚え、もしひとりでも村人を救えるのであれば、村へ行く価値はあるとひそかに考えていたのだった。応実の申し出は実は貞保にとっては願ってもないことだった。応実もまた剣術に長じており、残党狩りという面でも頼りになる人間だった。

「あと数人、わしの意をくむ連中がおる。昼間、明るいうちに行こう。お前が来てくれると心強い」

「もったいないお言葉」

 貞保は頭を下げながら、うれしさがこみ上げてきた。戦いに明け暮れる毎日の中では、いかに念仏を唱え続けようとも人の心は荒んでゆく。貞保は慎んでいたが、僧兵たちの中にも昼間から酒盛りをし、あたり構わず女を抱き、はめを外す連中が目立って増えてきた。姿かたちは僧であっても、その中身は戦国の世を戦う戦士に他ならず、徐々にそれが本来の戦いの目的からそれていくことを貞保は危惧していた。しかし昨今坊官たちも僧兵たちの乱行を見て見ぬ振りをするような節がある。

 それを口惜しく思っていた貞保にとって応実のようにまだ民のことを気遣い、力になろうとする誠実な人柄の僧が残っているというのことはこの上もない喜びだった。

 

 

 貞保が応実の供をして村々を訪ねたのはそれから二日後のことだった。村の出身者も入れて総勢で十三人の一行は朝日が昇ると同時に砦を出発し、手前の村から順々に見て回った。村の惨状は目を覆いたくなるものばかりだった。槍に体を貫かれて地面に串刺しになっている人間の姿。そして火に焼かれて黒く焦げている死体もいくつも見た。凄惨な様子は戦場で慣れっこになっていたはずの貞保も、幼な子の亡骸には涙を禁じえなかった。

 出来る限り埋葬し弔ってやったが、全部というわけにはいかなかった。日が高いうちになるべく沢山の村を回り、もし生存者がいるなら保護してやりたいという応実の方針によるものだった。

「三郎、お前の家族は?」

 貞保は同行した村出身の男に声をかけた。三郎は暗い顔で首を振った。

「いねえです。おっかあも子供たちも」

「じゃあ、きっとどっかへ逃げてほとぼりがさめるのを待っているんだろう」

 貞保は自分で言いながら、なんと空しい慰めだろうと思った。黒焦げになった死体を見たところで、身内かどうかなど判断できるわけがない。貞保は寂しそうに背中を丸める男の肩をたたいてやった。

 

「死骸がいやに少ないのう」

 ある坊官が突然そう言うのを聞いて貞保はぎょっとして振り向いた。そして同時に素早くあたりを見回した。二人の他には近くには誰もいなかったのを確認すると、貞保は声を落として言った。

「それは?」

 すると坊官はにやりと笑ってこう言った。

「おぬし、鬼が出るという噂を聞いたことはないか」

「鬼、でございますか」

「そう、人を食らう鬼じゃ。きゃつらにとってこれだけ楽できる世もないはずだ。自分で探さなくとも獲物はいくらでもいるのだからな」

「すると、鬼がここへ出て死体を食らっているのでございますか」

「ふふふ。そう恐い顔をするな。そういう話もある、というだけのことじゃ。わしも鬼にはいまだに会ったことがないでのう」

 坊官はそう言い捨てると、また何事もなかったかのように歩き始めた。しかし貞保には一笑にふすことの出来ない話だった。間違っても村出身者にはしてもらいたくない話だ。家族が鬼に食われたのでは、などという話しは冗談しても度が過ぎている。貞保は坊官の無神経さに腹が立った。

 

 田戸村に入ったのはもう夕刻に近く、応実はこの村を最後に引きあげることを宣言していた。四つ目の村だったが、それまで赤子ひとりも生存者を発見できず、貞保はほとんど絶望していた。

 半分焼け落ちた蔵の前を通りかかった時だった。突然火薬のにおいがした。

(鉄砲で狙われている)

 そう貞保が気づいたのと、銃声がこだましたのはほとんど同時だった。

「応実さま!」

 貞保の後ろを歩いていた応実の法衣が血で濡れていた。ぐったりとその場に倒れた応実の体を支えながら、貞保は素早くあたりを見回した。

(どこから?)

 蔵の後ろの林がわずかに揺れたのを貞保は見逃さなかった。貞保は応実の体を他の僧の手にゆだねると、猛然と林の中へ突進していった。煙の上がっている火縄銃が地面に打ち捨てられている。

(しまった。完全にしてやられた)

 まさか信長の残党が鉄砲をもっているなどとは貞保は夢にも思っていなかった。とにかく今はまだ近くにいるはずのその残党を始末しなければならない。闇雲に林の中を駆け抜ける貞保の足が突然止まった。悲鳴が聞こえたのだ。「ひっ」というくらいの短い悲鳴だったが、貞保は声のした方に足を向けた。

 薄暗い林の中に確かに女がひとり、うずくまっていた。つややかな長い黒髪をゆるやかに束ね、薄い黄色の小袖を着ている。その女の前にどう見ても死骸とおぼしきものが横たわっている。具足をつけた足がかいま見え、野武士のようであった。貞保ははじめ、女が誰か身内の死に泣いているのかと思った。しかし女の体のゆれは泣いているそれではなかった。肩の代わりに頭が上下に動き、かすかに何かを咀嚼する音がするのだ。貞保の背に冷たいものが流れた。

 

 女は気配を察してゆっくりと振り向いた。女の顔を見た瞬間、貞保の体を恐ろしいほどの速さで強い衝撃が駆け巡った。女は人目を引くようなあでやかな美しさを持っていた。しかし貞保の感じた衝撃は、その女の器量によるものではなかった。女の唇は紅ではなく、人間の血によって赤黒く染まっていたのである。

「化け物……」

 女は貞保を見つめながら血で汚れた唇を指でぬぐった。貞保は震えの止まらない手で刀の柄に手をかけた。

「たれが?」

 女は薄く笑った。ぞっとするほど美しい笑みだった。

「化け物とは聞き捨てならない。いったいわたくしのどこが化け物だと?」

「く、食っているではないか」

 貞保は震える指で横たわる死体を指差した。

「お前たちは? 食わんのか? 腹がすけば食べる。当然のことじゃ」

「おのれ、もののけめ」

 貞保はゆっくりと抜刀し、女に向けて構えた。

「いい目をしている。そなた、人を殺めるのが好きか?」

「なに?」

「人の体の中に刀が入る時の感触。返り血の上がり方、断末魔の声。その全部が鳥肌が立つほど好きか」

「もののけの分際で愚弄するかっ! 俺は阿弥陀如来のために戦う門徒だぞ。許さぬ。覚悟しろ!」

 貞保は振りかぶった刀をまっすぐ女に向けて振り下ろした。しかしその刀は女ではなく、さっきまで女が食らっていた男の体に埋まっていた。

 貞保はあわてて刀を抜いて構えなおしたが、女の姿はどこにもない。

 

(どこだ?)

 刀を構えながら首を回さぬようにして四方に目を配る貞保は、不意に背後に気配を感じた。振り向きざま斬ろうと、刀を回そうとした貞保はしかし次の瞬間、首を強くつかまれ、力づくで振り向かされていた。貞保は自分の唇にやわらかいものが押し付けられるを感じた。そしてそれが女の唇だとわかるまでに少し時を要した。

「なにをっ」

 正気に返って女を突き飛ばした貞保は、すぐに手の甲で唇をぬぐい、そこに薄い血の痕を見て愕然とした。人を食らった女の唇に触れてしまったのだ。脳天まで一気に熱い血が逆流するような怒りと憎しみがこみ上げてきた。女は尚も微笑んでいた。

 貞保は獣じみた声を上げながら、あらん限りの力で刀を振り回した。しかしそれはひとつとして女を傷つけることは出来なかった。散々振り回し、息が切れたところで女は悠然と貞保に言い放った。

「また来る。そなたも来よ」

 顔を上げる気力も残っていなかった。貞保はがっくりとその場に膝をつくと、おぞましいくちづけを思い出して激しくその場に嘔吐した。

 

 夜空に半月が浮かんでいた。

 応実は一命は取り留めたものの砦まで運ぶには体がもつまいと、その晩は村に留まることになった。貞保たちは半壊の家の中にかろうじて身を休める場所を見つけ、蔵の中を引っかきまわして当座の食料を手に入れた。

「明日発つとしても、応実さまをお運びする道具が要るな」

「手前が作ります。手ごろな竹が生えている場所がありましたゆえ、翌朝切り出してまいります」

 貞保がそう答えると、坊官は少々眉をひそめた。

「あの林には信長の残党が潜んでいるのではないか」

「ですからそれも始末してまいります」

「今晩は大丈夫か。襲ってこなんだか」

「それも手前が番をしますゆえ、どうぞお先にお休みくださいませ」

 貞保が頑強に言い張るので、しまいには皆その言葉を聞き入れて横になった。貞保は実際のところ、とても眠る気にはなれなかった。目を閉じると女の血に塗れた唇が現れる。あのような穢れた女に触れられたことがただただおぞましく、忘れたいのだが忘れられず、貞保はひとり苦しんだ。

(明日、林の中で再びまみえた時、必ずや仕留める)

 自分が鬼と遭遇し、触れられたことは誰にも言うまいと貞保は固く心に誓った。

 

 

 ふいに寝ていた応実が苦悶の声を上げた。

「応実さま、いかがなされましたか」

 貞保はあわてて応実の顔のそばに近寄ると、かすかに動く唇を読んだ。

「みず……」

「はい、ただいま」

 昼間、井戸から汲んでおいた水が土間の桶に入っていた。貞保は土間に飛び降りると、ひしゃくで水をすくって応実の口元に運んだ。応実はうまそうに水を飲むと、かすかに微笑んだ。貞保の胸は痛んだ。

「申し訳ございませぬ。手前がついていながら応実さまをこのような目にお合わせして」

 応実はかすれた声でそれに答えた。

「よいのじゃ。円恵、よいのじゃ。」

「お体に触りますゆえ、お話にならぬ方がようございます。どうかお休みに」

 貞保が言うと、応実は一度は頷いて目を閉じたが「おお、月が出ておるな」と再び目を開けて外を見やった。そして貞保の顔をじっと見つめると静かに語りだした。

「のう、お前はこの戦をどう思っておる?」

「どう、と申されますと?」

「お前は、かの蓮如上人が一揆には反対だったということを知っておるか?」

 蓮如は親鸞が開いた浄土真宗を建て直し、国々を行脚して教えを広めた僧である。教えは爆発的に広まり、広まった村で起きた一向一揆は、門徒と村人たちが団結して旧勢力に対抗した一揆だった。

 

「はい、聞いたことはございます」

「わしは常々思うておることがある。もし蓮如上人がご存命であれば、このような戦を望んだかどうかとな。他力本願とは、すべての人を救うための教えであったはず。決して他を滅ぼす教えではないのだ」

「しかし、あの信長めにはそもそも神仏を敬う気持ちがございませぬ。あのような輩がこの国をいいようにしていることは許せませぬ」

「円恵、もし蓮如上人であれば、信長のためにも祈ったはずじゃ」

「まさか、そのような」

「いいや、そうなのじゃ。寺は大きくなりすぎた。わしらのやっていることと信長のやっていることのどこが違う? 人々を殺し、領地を広げ、支配する。円恵、わしらはどこかで教えの道を踏み外してしまったのじゃ」

 応実は目を閉じて長く息を吐いた。

「このようなことを話すのもここでだからこそじゃ。もし顕如上人の耳に入ったらきっとわしは破門される。しかしこういう状況こそが異常なことなのだ。強大な権力を嫌い、起こしたはずの一揆が、いつのまにか強大な権力そのものに組み敷かれているのじゃ」

 

 応実の言うことには同意できる部分が確かにあった。本願寺内部にはもはや顕如に意見することも、個人的な思いを伝えることも許されない雰囲気が出来上がっていた。あるのは下知のみ。そして絶対的な服従だけが必要とされている。貞保はひそかに隣の間で寝ている坊官たちがこの応実の言葉を聞きつけてはいないかと、様子を伺った。しかし誰もが疲れきって熟睡している様子で、起きている気配はなかった。

「わしはな、本音を言えば、もう人を殺めることは真っ平なのじゃ。いつかそれを平気に思える日が来るとしたら、それはわしが人ではなくなる時じゃ」

 応実は仰向けのまま手を合わせ、静かに念仏を唱え始めた。貞保は目を閉じてその声に合わせて唇を動かしながら、昼間に会った鬼の女が言ったことを思い出していた。

 

(人を殺めることが好きか)

 断じてそうではない、そうであってたまるものかと奥歯をぎりりと噛みしめながらも、心の一方では「そうではないのか?」と尋ねる声がこだまする。貞保はふとあの女は自分の心の奥にあるものを嗅ぎつけたのではないかという恐怖にとらわれた。もしあの女の言う通りだとしたら、自分にはもはや念仏を唱える資格すらない。得度した時に迷いは既に消滅したのではなかったのか。貞保には自分がどういう人間であるのかわからなくなった。

 

 

 翌朝、空が白み始めた頃に貞保は昨日の林へと向かっていた。昨夜最初に持っていた女を殺す、という思いは既に変化していた。もう一度女に会って自分はどういう人間であるのかを尋ねたかった。

 足袋の下で木の枝や葉が乾いた音を立てた。女は程なく見つかった。まるで来るのがわかっていたかのように、太い竹のそばにたたずんでいた。

 朱に近いあでやかな唐織の小袖をまとい、女はじっと貞保を見つめていた。貞保はその気品のようなものに圧倒され、しばし女をみつめ返していた。

「そなた、名は?」

幽蘭(ゆうらん)

 女はうっすらと微笑した。林の中に差し込む日の細い光に浮き上がるその微笑は、ことのほか美しく、まるで吸い込まれるようだった。

「俺の名は……」

「名は知っている」

「どうして?」

「造作もないこと」

 幽蘭と名乗った女はくくっと低い声で笑った。

「さては昨夜、そばに来ていたのか。気配は感じなかったが」

「昨日鉄砲で撃たれた坊主」

「応実さまのことか」

「このままでは死ぬ」

「なに」

 貞保の瞳が大きく見開かれた。

「助けてやりたいか?」

「貴様、それはいったい……」

「わたくしが殺めるのではない。自然の摂理でそうなる」

「助かる術があるというのか」

 幽蘭はゆっくりと頷いた。

「それは?」

「条件がある」

 貞保は幽蘭が言う前からおぼろげにその条件がわかった。

「そなたがここに残ること」

 

 

「貞保、どうしたのじゃ」

 帰ってきた貞保の蒼白な顔を見て、皆口々に尋ねた。

「なんでもない。残党は仕留めてきました。あとは応実さまをお運びするだけです」

「お運びする道具は出来たのか」

「はっ。そのことですが、竹を切り出すまではしましたが、それをくくるものがないのです。何かよい案はないでしょうか」

「蔵の中をまたさらってみよ。なにがしかあるじゃろう」

「昨日の夜から寝ずの番をしていたがため、へとへとなのです。見てきてはくれませぬか」

 貞保はそう言うと膝を折って土間に手をついた。

「おお、そうであったな。よしよし出発までの間、お前はそこで寝ておれ。後はわしらでどうにかする」

 そう言うと坊官たちは連れ立って外へ出て行った。貞保は全員が去ったのを確認すると、疲れきった体にいまいちど鞭を入れ、あがり框に手をかけて立ち上がった。応実が寝かされている座敷まで這うようにして行くと、耳元に口をつけて小声で言った。

「応実さま、お休みのところ申し訳ありませぬ」

 応実は薄目を開いてぼんやりと貞保を見た。

「応実さまのお命を助けてくださるという方がおわします。手前がそこまでお連れしますゆえ、しばらくのご辛抱を」

「たれが?」

「今は言えませぬ。ささ、肩を」

 

 貞保は応実のわきの下から手を入れ、背中を支えて抱き起こした。傷に響くのか応実は苦しそうに顔をしかめたが、それに構っている余裕はなかった。貞保は応実の体を背負うと、土間に降り、戸口を出て林へと向かった。幸い皆、蔵や他の民家を家捜ししていると見え、外に人影はなかった。

「幽蘭、連れてまいったぞ」

 林に入ると貞保は声を潜めて呼びかけた。

「ここにおる」

 いつの間に来たのか、声のする方を見ると先ほどと同じ小袖姿の幽蘭が立っていた。貞保は背中の応実をゆっくりと地面におろして寝かせた。幽蘭はそれを見て近寄ってくると優雅な動作で膝をつき、応実の顔を覗き込んだ。

「おまえはたれか」

 応実が苦しげな息の下から言った。

「たれと思う?」

「わかった。お前は鬼じゃな。わしを食うのか」

 応実がすぐに幽蘭の正体を見破ったことは、貞保にとって大きな驚きだった。昨日はともかく、今日の幽蘭はまるで公卿の娘のような気品に満ちていて、正体を知っている貞保でさえも、昨日のことは何かの間違いではなかったかと思うほどだった。

 幽蘭は応実の言葉に薄く微笑んだ。

「食いはせぬ。助けて進ぜよう」

「これは面妖な。鬼のお前が何故わしを助ける?」

「ほんの気まぐれよ。その代わり円恵を貰い受ける」

 応実の瞳がわずかに見開かれた。

「円恵、まことか」

「応実さま、手前のことはどうぞご心配なく」

 貞保の意識は切れる寸前だった。夜通し眠らず、応実をここまで運んだことで疲れきっていた。しかし持てる気力の全てをふりしぼって目を開いていた。応実が治るところをどうしても見なければ、という一念からであった。

 

 幽蘭は正座したまま応実の胸元を開いた。傷口に当ててあったさらしを取ると、血だまりの固まった醜い傷があらわになった。幽蘭はゆっくりと応実の体に覆いかぶさり、その傷口に自らの口をつけた。応実は苦しげな声を上げた。

「だ、大丈夫で……ございますか」

 貞保は今にも眠りに入りそうな自分に鞭打ちながら応実のそばににじり寄った。幽蘭は程なく顔を上げると、血で染まった唇の周りを懐紙で丁寧にぬぐった。

「終わった。楽になったであろう」

 幽蘭の言葉に応実は半信半疑の表情で頷いた。

「確かに……痛みはもうない」

「応実さま、傷が……傷が消えております」

 貞保は応実の体に目をやって感極まって言った。そして同時に気を失ってその場にどうと倒れた。

「円恵、大丈夫か」

 驚いて起き上がった応実に幽蘭は笑って言った。

 

「なに、眠っているだけじゃ。よほどそなたのことが心配だったのじゃ。安心して気が緩んだと見える」

「助けてもらって心から礼を申す。しかしながら円恵を食うのは思いとどまってくれぬか。この通りじゃ」

 応実は地面に手をつき、深々と頭を下げた。

「たれが食うと申した?」

「え? それでは」

「わたくしはこの男に惚れたのじゃ」

「惚れる? 鬼が人に惚れるのか?」

「おかしいか」

 幽蘭の強い瞳の光に、応実は思わず目線を外した。

「命の恩人に失礼は承知で言わせてもらう。鬼と人の間に恋などありはせぬ」

 幽蘭の美しい顔がわずかにゆがんだ。

「それに円恵もわしも仏に仕える身の上じゃ。円恵の唱える念仏はお前に苦しみしか与えぬ」

「ふふ……」

「なにがおかしい」

「確かに昔はそうであった。お前たち坊主の唱える念仏や読経はわたくしに、のた打ち回るほどの苦しみを与えた。しかし昨今は違うのだ。嘘だと思うなら唱えてみい」

 応実は少しの迷いのあと、手を合わせて念仏を唱えだした。幽蘭は眉ひとつ動かさず、涼しい顔でそれを聞いていた。応実は次第に絶望的な表情になり、念仏は途中で途絶えた。

「ほうら、わたくしの言うとおりであろう」

「信じられぬ。いったい何が……」

「お前たちは口では御仏に仕えると言いながら、人を殺めて喜んでおるではないか」

「そ、それは違うのだ。頼む。話を聞いてくれ」

「お前たちからは血の匂いがぷんぷんするのじゃ。よいか、二度とわたくしの前に姿を現すでない。今度まみえた時はそなたを食う」

 幽蘭は一瞬きっと応実をねめつけると、地面に横たわる貞保を抱き上げ、引き止める間もなく林の奥へと姿を消した。応実は幽蘭たちの去った方に向かってただ呆然と手を合わせるしか術がなかった。

 

 

 貞保は夢を見ていた。

 夢の中で貞保はなぎなたをふるい、武将を斬っていた。貞保のなぎなたが水平に動き、武将の首をはねる。しかし首はすぐにまた生えてくる。払っても払っても兜をつけた首がぬっと出てくる。貞保はなぎなたを捨て、「南無阿弥陀仏」と唱え始める。兜の下の口が笑う。

「無駄だ。おぬしは僧などではない。ただの人殺しよ。わしが無間地獄に送ってやろう」

 そう言うと武将は三尺あろうかという大刀を貞保の頭上にひらめかせる。貞保は念仏をやめ、なぎなたを拾いたいのだが、どうしても体が動かない。口は勝手に「南無阿弥陀仏」と唱え続ける。刀が貞保の頭に振り下ろされる。ざっくりと割れて盛大に血しぶきが上がる。貞保は喉をふりしぼって叫んだ。

 自分の悲鳴で貞保は目覚めた。全身の力をこめて叫んでいたらしい、喉は嗄れ、体中が汗にまみれていた。

「恐ろしい夢じゃったのか」

 声に振り向くと、美しい女が座っていた。貞保はその女が誰であるかを必死に思い出そうとした。

「二日もずっと眠り続けていたのじゃ」

 女は手ぬぐいで貞保の顔をぬぐった。

「ゆう……らん」

 顔を見ながら貞保はようやく名前を思い出してつぶやいた。幽蘭はそれを聞くとかすかに笑った。

「なぜじゃ?」

「なにが?」

「なぜ俺を食わぬ?」

 幽蘭の貞保の顔をぬぐう手が止まった。

「食ってほしいのか?」

 幽蘭はいたずらっぽい瞳で笑った。子供のような笑顔になぜか胸が騒いだ。

 

「ここは、どこだ?」

「わたくしの家」

 貞保はぐるりとあたりを見回した。京にある自分の家に似た趣の部屋だった。黒塗りの柱に白い壁、萩の描かれたふすまが四方を取り囲んでいる。

「どこにあるのだ? この家は」

「さあ、どこであろうな」

 幽蘭は涼しい顔で言うと、貞保の着ていた法衣を脱がせにかかった。貞保はそれに驚いて少し抵抗した。

「汗でこんなに濡れている。着替えないと風邪を引く」

「平気だ。それに着替えはひとりでできる」

「わたくしではいやか」

 少し傷ついた表情の幽蘭に貞保は慌てた。

「いや、そういうわけではない。その、俺は少々女性(にょしょう)から遠のいていたものだから」

「恥ずかしい、というわけか?」

 幽蘭はおかしそうに貞保の顔を覗きこんだ。貞保は一瞬またこの女の正体を忘れてその笑顔に引き込まれた。貞保は顔を左右に激しく振った。

「そんな目で俺を見るな」

「どうして?」

「貴様は鬼だ。俺を食うためにここへつれてきた。そうであろう」

 幽蘭の瞳からふっと輝きが消えた。

「さっさと食え。俺は逃げも隠れもせぬ」

 幽蘭はそれには返答せず、きちんとたたまれた衣類を差し出すと

「着替えはここへ」

と部屋を出て行った。

 

 ひとり取り残されて貞保は当惑した。幽蘭が自分に「残れ」と言った意味は自分を獲物として見ているのだとばかり思っていた。それを覚悟の上で応実を救ってもらおうと思ったのだ。

 実を言うと貞保は半分はほっとしていた。あの前日、応実が言ったことで貞保の心は乱れていた。人を殺すことをなんとも思っていない自分がいるとしたら、それは既に人ではなく鬼だ。しかし、貞保は本物の鬼に会った。その鬼に食われるということは即ち人として死ねるということだ。

(極楽浄土へいけるのだ)

 その思いは貞保の気持ちを落ち着かせるのに十分だった。つまり応実のため、というよりも自分のために幽蘭の申し出を受けたわけだ、

 ところがなぜか自分は生きながらえている。

 食おうと思えばすぐにでも食えたはずだ。二日も寝込んでいた自分を何故そのままにしておいたのか貞保は合点がいかなかった。

 何か腑に落ちない気分のまま、貞保は幽蘭がおいていった小袖と袴に着替えると、そっとふすまを開けて外の様子を伺った。濡れ縁越しに緑濃い林が見える。空にはひばりのさえずりが聞こえ、のどかそのものの風景に、貞保はまた出鼻をくじかれたような気分に陥った。

(逃げ出すことは可能なのだろうか)

 見たところ高い塀もなく、林の中に入り込めば容易に逃げ出せそうな気がする。貞保は濡れ縁にたたずんでしばらくそのことを考えた。しかし応実を救ってやるという約束は紛れもなく果たされている。もしここですぐに逃げ出せば、幽蘭は約束を反故にしたと恨んで応実を襲うかもしれない。

 しばらくここに留まって様子を見よう、と貞保は思った。留まっていれば幽蘭が貞保をどうしようと思っているかも、そのうちわかるだろうと考えたのである。

 

 

 幽蘭が再び貞保の前に姿を現したのは五日後の夜のことだった。この間、貞保は屋敷の中を探索したりもしたが、誰にも会うことはなかった。気配すらなかった。それなのに気がつくと食事の用意や夜具の用意が整えられていた。

 貞保はこの五日間、外へは出ず、部屋で念仏をあげ、蓮如の御文を覚えのまま書き記し自己研鑽に勤めた。御文とは蓮如が門徒たちに手紙形式で書き与えた法語で、いまだに多くの門徒の心のよりどころとなっている。

 

 それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。されば、いまだ万歳(まんざい)人身(にんじん)をうけたりという事を聞かず。一生すぎやすし。

 

 頭からすらすらと文字は出てくるものの、筆はあまり進まなかった。この時の貞保の頭を支配していたのは戦の行方でも、砦の仲間のことでもなかった。思うのは幽蘭のことばかりだった。とりわけ二回目に会った時の気高く美しい様子。目が覚めた貞保の顔を覗きこむ可憐な表情。そのどれもが今まで体験したこともない感情を貞保の中に起こしていた。それが世に言う「恋」というものだということさえ貞保は知らなかった。

 夜、床に入ってからも幽蘭の顔が浮かんでは消え、眠ることさえ難しかった。この夜もなかなか寝付けずに濡れ縁に座ってぼうっと夜空を眺めていた。幽蘭はその貞保の横にいつの間にか座っていた。

(つくづく不思議なおなごじゃ)

 涼しい顔をして座っている幽蘭を見つめながら貞保は心の中でつぶやいた。貞保は一度は幽蘭が人を食っているところを見たのである。しかし一度口をぬぐってしまえば、血なまぐさいどころか高貴な家の姫のように凛としている。

「そのように見つめないでくださいまし」

 幽蘭はつややかに微笑む。その笑みに何故か貞保はどぎまぎしてうつむいた。

「し、少々、ものを尋ねてもよいか」

「どうぞ」

「そなた、わしが人を殺めるのが好きかと申したであろう。何故そう思う?」

 幽蘭はしばらく目を伏せて沈黙していたが、やがて

「あの時あの坊主を撃ったあの足軽。そなたはあの者よりはるかに血の匂いがした」

「嘘だ」

「わたくしが嘘をついて何になる?」

 貞保は言葉を失って沈黙した。 

「そなただけではない。わたくしは知っている。戦に行く度に人は段々とそうなっていくのじゃ。はじめは自分を守るために振るっていた剣が、血の味を知り、人を斬ることに喜びの声を上げるようになる。その声に自分をゆだね、酔いしれるものもおる。また、心荒み、感情の起伏が乏しくなるものもおる。しかしそなたはそういう輩とは又違う。あの夜うなされていた夢は、おそらくは人を斬る夢だったのだろう。そなたはまだもうひとりの自分と戦っているのじゃ」

 

「もうひとりの自分……」

 

 貞保は膝の上に広げた両手の平に目を落とした。自分の手でとどめを刺した氏家ト全の顔が目に浮かんだ。兜の下から覗いた目は怯えていた。死ぬことを怖れていた。それがわかっていながら貞保はなぎなたを振り下ろした。あの時そうしたのは、いかなる理由なのだろうか。ただ目の前の命を蹂躙したかっただけではないのか。

「そなたはまっすぐじゃ。あまりにもまっすぐでまぶしいくらい」

 はっと目を上げると、目を細めて見つめる幽蘭の瞳にぶつかった。まるで吸い込まれるようなその瞳に、貞保は視線を外すことが出来なかった。鳩尾の辺りにじんわりと熱を伴う痛みを感じた。今まで一度も感じたことのないその痛みに貞保は当惑した。

(何を惑う? この女は鬼なのだぞ)

 貞保は立ち上がろうとした。

「そろそろ……休む」

「そうなされませ」

 言葉にすれば立ち上がれる。そう思ったのに貞保は立ち上がるどころか、ひざを立てることすら出来なかった。ただ呆けたように幽蘭をみつめるばかりだった。

 

 

 その晩、貞保は顔をあたるための刃を自分の腕に当てて傷を作った。そして傷から流れる血を口で吸った。それは鬼の女に惹かれている自分への戒めだった。

(そうだ、この味だ。忘れるな。あの時の幽蘭の唇は血の味がしたのだぞ)

 貞保は必死にそう言い聞かせた。おぞましいくちづけだったはずのものが、いつの間にか甘美な思い出にすり変わろうとしていることが許せなかった。あってはならないことのはず、という思いと同時に貞保の心を恐怖が満たしていた。それは自分自身の中に鬼の部分があるからこそ、幽蘭に惹かれるのではないかという恐怖だった。

(このままでは俺は本当に鬼になってしまう)

 貞保は屋敷を出る決意を固めた。

 

 

 明朝早くに貞保はここへ来た時の法衣を身につけ、屋敷を取り囲む林の中へ分け入った。どちらへ行っていいのやらわからぬまま、長い時間、闇雲に歩き続けた貞保の視界があるとき突然に開けた。

 眼下に広がる景色に貞保は息をのんだ。

 そこは切り立った崖で、少し離れたところにはどうどうと水しぶきを上げる大瀑布が見えた。水の落ちる先は白く煙って見定めることも出来ない。あたりを見回したが下へ通じる道は一本もなかった。

 貞保はしばらく瀑布を眺めていた。そして自分が鬼にならないためには、ここへ身を投げる以外に方法はないのかも知れないとぼんやり思った。阿弥陀の力にすがって落ちれば、きっと行き先は極楽浄土だ。もう何も悩まなくてもいいのだ、と考えると不思議に心が軽くなった。

 貞保は崖伝いに歩いて瀑布の近くまで行った。手を合わせ、念仏を唱え始めようとした途端、背後から声が聞こえた。

 

「死ぬのか?」

 幽蘭だった。貞保は振り返ってから、見なければよかったと後悔した。幽蘭は泣いていた。涙が頬をいく筋も伝い、尚もその瞳からはぽろぽろと涙が零れ落ちていた。

「そんなにわたくしがいやか」

 きつく何かで縛られたように胸が痛んだ。

「そうではない。ただ……わしはただ極楽浄土に行きたいのじゃ」

(そなたに惹かれている自分が許せないのだ)と言おうとした自分を、貞保はかろうじて押さえつけた。

「鬼と人の間に恋などはありはせぬ」

 幽蘭はふりしぼるように叫んだ。

「わかっていた。わたくしだってわかっていたのだ。わかっていてもどうしようもなくそなたが欲しかった。何故わたくしは穢れているのか。許されぬ存在ならば何故わたくしは生きているのか」

 幽蘭は両手で顔を覆って慟哭した。貞保はなかば呆然とその告白を聞いていた。石で頭を殴られたような心持ちだった。自分の悩み苦しみばかりに気をとられて、幽蘭自身の苦しみにはなにひとつ気づいてやることが出来なかった。「鬼になりたくない」と悩む自分よりも、「鬼であること」に悩む幽蘭の苦しみはいかばかりだっただろうか。幽蘭こそ喜んで人を食っているわけではないのではないか。

「幽蘭、わしは……」

 貞保の言葉をさえぎるように幽蘭はつと顔を上げた。その瞳には強い光が戻っていた。

「こちらへ。里に……帰してやるからこちらへ来よ」

 

 

 目を閉じているようにと言われ、貞保がその通りにすると、急に体が浮くような心地がした。次に目を開けてもいいと言われたその場所は田戸村の林の中だった。幽蘭はうつむいたまま、貞保の方を見ようともしなかった。貞保もそんな幽蘭にかける言葉がひとつも見つからなかった。というよりも自分にはかける権利がないのだと貞保は悟った。

 幽蘭の苦しみがわかったところでそれを背負う勇気も、「生きていてもいいのだ」などと声をかけてやる勇気が貞保にはなかった。今までこれほど自らをふがいなく思ったことはない。苦い思いが貞保の心の中で渦巻いていた。

 口をつぐみ、黙って去ろうと背を向け、二、三歩踏み出した時だった。

「教えてほしいことがある」

 幽蘭の声に貞保の足が止まった。

「何だ?」

「そなたが唱えるその念仏、わたくしでも唱えられるのか」

「できる……はずだ。口が利けるなら」

「では、そなたのために唱えても?」

 貞保は目を見張って幽蘭を見つめた。

「そなたがその極楽浄土とやらに行けるように祈りたい。『他力本願』とはそういうことだと聞いたことがある」

 

「わしのために祈ってくれるというのか」

「そう、いけない?」

 幽蘭は心細げに首をかしげた。いじらしく思う気持ちが胸にこみ上げてきたが、貞保は両のこぶしをきつく握り締めてその思いに耐えた。

「いや、ありがたいことだ。是非頼む」

 幽蘭は微笑して両手の平を合わせた。痛々しい笑顔に心が痛むのを感じながら、貞保は幽蘭が唱える「南無阿弥陀仏」を聞いた。

 と、まもなく貞保は幽蘭の体に異変が起きているのに気づいた。一回唱えるごとに、幽蘭は苦しげに顔をゆがませる。体のどこからか定かではなかったが白い煙のようなものが立ちのぼり、焦げるような匂いが辺りを包み始めた。蝋のような白いどろりとしたものが地面にしたたって次第にたまっていく。唱えるごとにその量が増していく。幽蘭が自らの体を削って祈りをささげていることはもはや明らかだった。

(このまま続ければ幽蘭の命は……)

 思うより先に貞保の体は動いていた。

 念仏はふいに途絶えた。

 貞保がその唇をふさいだからだった。

 

「どうして?」

 唇を離した貞保を幽蘭は不思議そうに見上げた。

「もうよいのだ。もう念仏を唱えなくともよい。わしは極楽浄土には行かぬ」

 そう言うと貞保は幽蘭の体をきつく抱きしめた。

「そなたと一緒にいる。大丈夫じゃ。きっと地獄も面白かろうて」

 貞保の頬を涙が伝い、幽蘭の流した涙とひとつになった。あの瀑布で感じた安らぎよりも、もっと大きくもっと暖かなもので心が満たされていくのを感じた。貞保は応実の言った「蓮如上人なら信長のためにも祈っただろう」という言葉を思い出していた。得度した道を捨てることをきっと蓮如上人ならわかってくれるかもしれない、と貞保は思い、それから頭を振って思い直した。

(いや、たれがわかってくれなくともよいのだ。これは自分で選んだ道だ。生涯決して悔いることはない)

 

 

 天正八年。

 世に言う石山合戦は開戦から実に十一年の時を経て、ようやく本願寺明け渡しという決着を見た。応実はこの時、齢五十六歳。が、長年の戦の疲れから実際の年より大分老けて見えた。武器の一切を捨て、法衣のみで寺をあとにしようというその時、聞き覚えのある声がして応実は振り向いた。

「どうかなさいましたか」

 身の回りのものを荷造りしていた僧が不思議そうに応実を見上げた。

「いや、今たれかわしを呼ばなんだか」

 僧はあたりを見回して「さあ」という顔をした。外廊下へ出てみたが、誰もそんな応実を気に留める者はなかった。

(どこかで聞いた声じゃった。それも忘れてはならない声のような気がする)

 応実はしきりに首をひねって考えていたが、どうしても思い出せず、仕方なくきびすを返した。しかし声は再度、今度ははっきりと聞こえた。

「応実さま」

 部屋のそばにたたずむ編み笠姿の僧だった。応実の脳裏で声と姿が初めてつながった。

 

「お前はもしや、円恵……」

 僧は人差し指を唇の前に出して先を制した。

「手前はもはや僧ではありませぬ。この姿は応実さまにお会いするための仮の姿。貞保とお呼びくださりませ」

「生きておったのか。信じられぬことだ。わしの祈りが通じた」

 応実の頬をあふれ出る涙がつたった。

「応実さまこそ。長島の砦は信長の手により殲滅されたと聞いておりました。ご無事で何よりです。これより京へお戻りになられるのでしょうか」

「いや、わしはな、これからは寺には住まぬ。蓮如上人のように国々を行脚して回るつもりよ。老いぼれゆえ、そう多くは回れぬじゃろうが、寿命尽きるまでそのようにしてみたいのじゃ」

 笠の下から覗く口元が微笑した。

「応実さまらしいことです。ご長命をお祈り申しております」

「円恵、いや貞保であったか。そなたも来るがいい。一緒に行こう」

 貞保はゆっくりと首を左右に振った。

「なにゆえじゃ?」

「手前には手前の生きる道がございます。長居いたしました。これ以上はたれに見咎められるとも限りませぬ。お暇いたします」

 貞保はきびすを返して外廊下を歩き出した。

 

「待て、貞保」

 応実の声にも一切反応することなく、その姿は角を曲がってあっという間に消えた。応実はまるで狐につままれたような気分でただその場に立ち尽くしていた。そしていつぞやもこうやって貞保を見送ったことを思い出した。

(そうじゃった。貞保は鬼にさらわれていきよったのじゃ)

 応実はもつれる足で貞保の去った方角へ走った。

 石山本願寺は城郭と言ってもいいほどの規模と機能を備えた寺だった。貞保の去った方角には本堂がさながら天守閣のようにそびえ、そのまわりには阿弥陀堂、鐘つき堂や小堂がひしめくように立ち並んでいる。明け渡しのために走り回っている小坊主や坊官たち、見張りの兵たちの姿は見えたが貞保の姿は認められなかった。

 がっくりと肩を落とした応実はしかし、ふと本堂の方へ目をやって驚愕した。本堂の広い屋根の上を歩く二人の人影が見えたのだ。ひとりは間違いなく貞保であると確信した。もうひとりは……。

 遠目にも女であることが応実にはわかった。

(まさか……)

 応実は一瞬それがまぼろしのように思えた。二人は仲睦まじそうに寄り添って本堂の屋根を登ってゆく。その姿が見えなくなるまで見つめていた応実の耳に、鐘の音が聞こえた。長く尾を引くその音とともに、応実の胸に親鸞の言葉が去来した。

 

 善人なおもて往生す

 いわんや悪人をや

 

 石山本願寺に最後の鐘の音が厳かに響き渡った。

 

 

                  了



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南さんのサイト『ALOMA AVENUE』さんの5万ヒットを鹿の子が踏んだ際にリクエストして書いていただいた作品です。
鹿の子のリクエスト内容は『人と人にあらずものの恋』でした。
南さんの作品を拝読する度に、とても刺激になって、勉強になります。(←全く生かされていないけど)
南さん、ありがとうございました!

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