膝小僧プリンセス

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 思えば彼女は年中、膝小僧に絆創膏(ばんそうこう)を貼っていたのだ。

  
 幼なじみたちの近況を、本人たちから聞かなくなって随分と経つ。
 小学生の頃は、光石卓(みついし すぐる)がバイオリンを習いだしたとか、田中小枝子(たなか さえこ)が塾を変えただとか。
 天野一哉(あまの かずや)が、隣のクラスの女子からラブレターを貰ったとか、でも、それはいたずらだったとか。
 そんな話を、通学途中や、夏の夜の花火のときに、しぜんと耳にしていたのだ。
 大学進学や就職など、それぞれが成長していくにつれて、彼らとは疎遠になってしまった。
 そして、彼らの近況さえも、互いの母親を通して聞くのが、あたりまえになってしまったのだ。
 
 夜の九時過ぎ、仕事を終え自宅に戻ったぼくに、母は温め直した夕飯を用意してくれた。
 父は学生時代の友人との飲み会で、いつものパターンだと、今頃はカラオケに移っているころだ。
 ぼくは、二十八歳になっていた。商社に勤務し、所属は人事部だった。
 「健也(かつや)、こんどあなたの会社に八重子(やえこ)ちゃんが、お仕事で行くらしいから、よろしくね」
 「八重……って、誰だっけ?」
 「八重子ちゃんよ、田中八重子ちゃん。あなたの同級生の小枝子ちゃんの妹じゃない」
 「あぁ、あの小さい子ね」
 焼きナスの味噌汁を左手に持ったまま、頷く。
 「あの子、もう働いているの?」
 「健也が二十八歳なんだから、それより三歳下の八重子ちゃんは二十五歳でしょう」
 しっかりしてよ、と母が言う。
 「あの女の子が、もう二十五歳か。月日が流れるのは、早いものだなぁ」
 「年よりくさい言い方はやめてちょうだい」
 「ぼく、ひとり暮らしでもしてみようかな」
 いまさらかもしれないが、ぼくが家を出れば母も食事作りが楽になると思うのだ。
 しかし、母は喜ぶどころか、鼻をふんとならした。
 「健也をひとり暮らしなんてさせたら、年よりを通り越してミイラになっちゃうわよ。家を出るなら、ひとり暮らしはダメ。 ふたり暮らしにしてちょうだい」
 母はさりげなく、ぼくに「結婚しろ」とメッセージを送ると、食器は洗っといてね、と言い残し風呂へいった。
 
 ぼくは一人っ子なのだが、弟や妹がいるように他人(ひと)から思われるようだ。
 どうしてなのだろう、と自分なりに考えた結果、幼いころからの友人関係における役割から、形成された性質(たち)なのだろうなと結論づけた。
 光石も天野もすばしこく、頭の回転も速く、そのふたりをなんとか暴走させないように立ちまわり、暴走したときにはそのフォローをするのが、ぼくだったのだ。
 だれに頼まれたわけでもなかった。ただ、そうしなくちゃいけない、といった使命感が、子どもながらにあったのだと思う。
 とくに、小学校生のころは、大変だった。
 光石は、優し気な女の子のような顔立ちとは相反し、考え方はシャープで、腹黒かった。彼は、髪が短く絵の上手い同級生の里垣麻耶(さとがき まや)が好きで、 彼女がいじめられると、その相手が男だろうが女だろうが容赦なく倍返しで復讐をしていた。
 天野は、絵にかいたようなやんちゃな少年だった。いたずらも派手で、天野だけでなく、ぼくと光石も巻き添えをくい廊下に立たされた。
 小枝子はといえば、ぼくらの姉のような存在だった。怪我をした天野を保健室に連れて行ったり、 光石の復讐のえぐさに泣いてしまった女の子に、ちくりとくぎを刺しつつもなぐさめたりしていた。
 ふと、小さな女の子の姿が頭に浮かんだ。小枝子の妹の八重子だ。
 八重子は、姉の小枝子が大好きで、ぼくたちが遊ぶときには、姉の脚にからまるようにくっついてきた。 八重子は、色が白くてふわふわしていて、そういえば、よく転ぶ子だった。 そして、そのたびに、小枝子が絆創膏を出して、貼ってあげていたっけ。
 また、小枝子が持っている絆創膏を、どういうわけか天野も欲しがった。 あいつは怪我などどこにもないのに、小枝子から奪った絆創膏を嬉しそうに腕やおでこに貼っていたのだ。
 みんな、元気なんだろうか。ひさしぶりに、会いたくなった。
 
 書類の確認に没頭していたら、内線がなった。
 電話は受付からで、約束していた人材派遣会社「一和(いちわ)パーソナル」の来社を告げられたのだ。
 腕時計を見る。午前十時六分、約束の時間の十時からは、少し過ぎていた。
 
 受付から聞いた第三応接室に入ると、ソファーに座っていたグレイのスーツを着た女性が、すっと立ち上がり、時間に遅れたことへの謝罪をしてきた。
 その女性の背は、百五十六センチくらいだろうか。百八十センチ近くあるぼくは、彼女を見下ろすような感じになってしまった。
 女性の癖のある髪は、後ろでひとつに結ばれていた。色が白く、口元は一直線だった。
 まだ、若いのだろう。ぼくは、就職活動中の学生と会っているような気分になった。
 ただ、学生と違うのは、その話し方だ。甘めの外見とは裏腹のアルトの声は、滑舌がよいため聞き取りやすい。
 まっすぐな眼差しもいい。そこからは、この女性の真面目さや、誠実そうな人柄が想像できた。
 互いに自己紹介をしながら、名刺交換をした。女性にソファーに勧め、自分も座った。
 さて、いよいよ本題だと、スイッチを切り替ようとしたぼくの視線のさきには、女性の左膝小僧に貼られた、三枚の絆創膏があった。
 しかも、絆創膏のガーゼ部分には、うっすらと血が滲んでいたのだ。
 どうしたんだ、それ。
 どこで、転んだんだ。
 痛くないのか。
 仕事柄、多くの人たちと会う機会があるが、こんな状況の女性(男性もだが)と会うのは、記憶をたどる限りない。どうにも気になってしまうのだ。
 しかし、だからといって、ぼくが女性の膝をじろじろと見ていい理由にはならない。
 女性も、膝に怪我をしたといった様子を、ちらりとも見せない。ここは、見て見ぬふりをするのが正解なのだろう。
 ぼくはそう決めると、膝小僧から目をそらし、「一和(いちわ)パーソナル」の会社説明について、耳を傾けた。
 
 二十分後、席に戻ったぼくに、二年先輩の男性社員、内田聡(うちだ さとる)が声をかけてきた。
 「どうだった? パーソナルさんは」
 「新規の派遣会社さんなので、課長からは慎重にすすめるようにと言われていましたが、 今日の説明を聞く限りでは、派遣さんのフォローやスキルアップにも力を入れているようで、とりあえずは好感触でしたよ」
 「そうじゃなくて、営業の彼女のことだよ」
 「営業の……『田中さん』ですか?」
 口頭での自己紹介は苗字だけだったため、改めて、受け取った名刺を見た。「田中 八重子」とあった。……やばい。彼女が小枝子の妹の「田中八重子」だったのか。
 他所(よそ)の会社の名刺に文句はいいたくないが、「田中」と「八重子」の間が離れすぎてないか?
 「聞かなかった?  受付さんから」
 「聞くって、なにをですか?」
 「パーソナルの営業さん、うちの会社に入るなり、マットに足をとられて派手に転んだって話だぞ」
 「あの膝は、うちの会社でやっちゃったんですか」
 「ちょっとした、流血事件だったらしいよ」
 それは、さぞかし痛かっただろう。今さらながらに、気の毒になる。
 「たしかに、膝小僧に絆創膏を貼ってましたからね」
 「可愛い子だったんだろう?」
 「内田さん、その発言、よくないですよ」
 「おっと、そうだった」
 内田がおどける。
 「しかし、膝に絆創膏なんて、どこかレトロだな」
 「子どものころは、消毒薬と絆創膏は身近でしたけれどね」
 「今の子なんて、遊びたくても、そんな場所もないんだろうな」
 「そうかもしれないですね」
 内田とふたりでしんみりとしたところで、また、電話がなった。
 
 仕事帰り、ダメもとで光石と天野に連絡をした。光石からは「行く」とだけ返信があったが、天野からは返信もこなかった。
 自宅の最寄り駅にある居酒屋で光石を待つあいだ、ぼくは枝豆をさかなにビールを飲んでいた。母には夕飯はいらないと、連絡済みだ。
 サラリーマンに交じり、母よりもやや若い女性だけのグループもいた。みな、楽しそうだ。
 分煙されてはいるが、禁煙席でもどことなく煙いのが、いかにも居酒屋らしい。揚げ物の匂いや、ニンニクと肉を焼く煙や匂いも混じり、店内は混とんとしていた。
 通路の向こうから、光石が歩いてきた。やつは、あいかわらず、造作の整ったすっきりとした顔立ちで、居酒屋よりも六本木あたりの隠れバーが似合いそうな風情だった。
 久しぶり、と声をかけると、光石は、ふんと鼻をならし席についた。
 「健也、結婚でもするの?」
 「開口一番、するどい発言だね」
 「それしか思いつかなかった」
 「悪かったよ、連絡しなくて」
 光石は、ちょっと拗ねている。この感覚も久しぶりだなと懐かしく思う。
 「で、相手はだれ?」
 「彼女もいないのに、結婚なんてできないだろう。ただ、光石や天野に会いたいと思って連絡したんだ」
 「そうなんだ。あ、おねーさん、レモンサワー」
 光石は、店員さんに笑顔で注文をいれた。
 「今日、ぼくの会社に、仕事で小枝子の妹の八重子ちゃんが来たんだ。なんか、すっかりいいお嬢さんになっていてさ、自分が年を取ったなって思ったんだ」
 「健也ってさ、自分の身に起こるいろいろに、どこか他人事(ひとごと)だよね。当事者にならないうちに、人生が終わっちゃうよ」
 「光石や天野のように、感受性が豊かじゃないのかな。なにが起きても、まぁ、いいやって思ってしまうんだよね」
 「高校のとき、健也の彼女がおれに言い寄ってきても、おまえは平気な顔をしていた」
 「そうかな。結構、傷ついていたけどな」
 光石にそう見せなかったのは、ぼくの見栄だったのだろう。
 光石に言い寄ったぼくの彼女の本命は、初めから光石だった。
 やつは、恐ろしいほど女の子にもてた。そのため、彼女は光石を諦め、やつの友人であるぼくに告白してきたようなのだ。
 光石も、ぼくの彼女ということで、その女の子に比較的親切にしたため、彼女は自分の想いに、次第に希望を持った。
 結果、彼女はぼくをふり、光石に近づいた。その彼女を、あいつは残酷なまでにザクリと切った。
 ぼくは、光石にのりかえようとした彼女よりも、彼女に酷い態度をとった光石を責めた。
 あのとき、光石は心底しんじられないといった顔でぼくを見た。
 あの事件が、ぼくと光石に距離を作ったともいえるかもしれない。
 「ごめんな、光石。ぼくのちっぽけなプライドが、きみを傷つけたよな」
 「健也は、自分が惚れた女とつきあわないから、周りも巻き込んでわけがわからなくなるんだ。おまえみたいに ぼんやりした男こそ、ちゃんと好きな子をみつけてつかまえないと、人生ダメになるよ」
 「そうかもな。でも、恋なんてできるのかな。よく、恋はするものじゃない、落ちるものだなんていうけど、あれは本当なのか?」
 「恋ができないなんて、好きな女がいないなんて、おれには信じられないよ」
 「光石は、まだ里垣が好きなんだな」
 「最悪だよ。知っているか? 里垣が見合いしたっていうんだ。見合いだぞ、結婚だぞ。そんなのするくらいなら、おれと寝ろっていうんだ」
 「おまえ、相変わらず口が悪いな。外見からは想像できない、底知れない悪さを、善良な里垣は察知して逃げているんじゃないのか?」
 うるさいよ、と光石は運ばれたサワーを飲んだ。
 「結婚の報告じゃないのなら、なんで、おれを呼んだわけ? まさか、八重子ちゃんに会ったって話をしたかったとか」
 光石の問いに、かたまる。たしかに、光石や天野に連絡をしようと思ったもともとに、八重子の存在があったような気がする。
 光石が、ふーんと笑う。
 「おまえ、嫌なやつだな」
 「八重子ちゃんか。伏兵だな。まぁ、あの子はいい子だしね」
 「光石が女の子を褒めるなんて、珍しいね」
 「あの子といるときの健也は、おろおろしてて面白かったなぁって思いだしたんだ。おまえ、一生おろおろしていろ」
 呪いのような光石の言葉に、ぼくは苦笑いした。
 
 小学三年か四年のころだっただろうか。小枝子が夏風邪で寝込んでいるときに、八重子だけがぼくたちが遊ぶ公園にやって来た。
 そして、八重子は、やっぱり転んでしまった。大泣きだった。
 そんな彼女を、ぼくはなんとかなだめながら背負って、小枝子の家まで届けた記憶がある。
 ぼくの背中に、八重子のあたたかな体温が広がった。
 彼女の涙と鼻水で、背中がじんわりと濡れていく感触ははじめてで、どうしていいのか戸惑った。
 八重子の体はやわらかかった。光石や天野に比べて、体がふにゃふにゃと掴みにくく、落としてはいけないと緊張して、怖かった。
 ようやく、八重子を家にとどけたときには、ぼくもそのままその場にしゃがみ込んでしまったくらいだ。
 今日会った八重子は、そんな過去などなかったような涼しい顔をしていた。
 ぼくに会う直前、派手に転んだにもかかわらず、痛がる素振りも見せなければ、涙のあともなかった。
 二十五歳の立派な女性になったわけだけれど、それが、ぼくには少し寂しくもあったのだ。
 
 二日後、八重子は、ぼくからのリクエストの資料を揃えて、会社にやってきた。
 前回と同じ応接室で説明を受けながらも、ぼくはつい膝に目がいってしまった。
 絆創膏は、まだ三枚貼られていた。
 「―――― 以上ですが、何かご質問はございますか?」
 真剣な顔をした八重子が、ぼくを見ている。
 「いえ。ありません」
 八重子は、はじめてほっとした表情を浮かべた。 そこに、幼いころの面影をみたような気がするけれど、それも一瞬で、すぐにまた、できる女性の顔にかわった。
 母から、「八重子ちゃんをよろしく」なんて言われていたので、彼女にもそういった、あまえがあるのかと危ぶんでいたけれど、それは間違いだった。
 いまさらだが、担当は他の誰かに変わってもらおう。
 ほんとうに、いまさらだ。
 ぼくは前回、「一和パーソナル」の営業担当者が八重子だと認識した時点で、ぼくの担当変えを申し出なくてはいけなかったのだ。
 それなのに、今日もこうして八重子に会ってしまったのは、ぼくが彼女に会いたかったからだ。
 契約前の会社の担当者と、こちらの窓口が知り合いっていうのは、どちらの結果に転んでも、いらぬ詮索されるだろう。
 それは、まずいとわかっていたのに、ぼくはその考えに蓋をしていたのだ。
 ――「まさか、八重子ちゃんに会ったって話をしたかったとか」
 光石、するどいよ。その通りだよ。
 「次回から、弊社の担当者が変わるかもしれませんが、よろしくお願いします」
 ぼくの言葉に、八重子の表情が曇ったが、それは見ないふりをした。
 ぼくは立ち上がり、応接室のドアを開ける。
 八重子は、机に載せていた資料を慌てて黒い鞄い入れだした。
 ぼくは、そんな彼女の様子から目をそらし、八重子が躓いたとされる、入り口のマットを見ていた。
 えんじ色のマットは、さほど厚みがあるわけでもない。
 あんなので躓くんだな、と思いながら、そういえば、八重子は段差に関係なく、転んでいたじゃないかと思い出す。
 たしか、小枝子曰く、歩き方に癖があって、とくに焦るほど転びやすいと。
 失礼します、と言いながら八重子が慌ててぼくの横を通っていく。まずい、と思ったと同時に、八重子が躓いた。
 ぼくはとっさに手をのばし、八重子の腕を引いた、が、今度はぼくが、バランスを崩した。 後ろに倒れてきた八重子を抱えたまま、ぼくは尻もちをついた。
 とてつもなく、尻が痛い。
 「健也君、大丈夫?」
 「たぶん。八重子ちゃんこそ大丈夫?」
 「私は、健也君がクッションになってくれたから大丈夫だよ」
 ぼくが八重子の体に回していた腕を離すと、彼女はゆっくりと立ち上がった。
 八重子は、ためらいもせずに、ぼくに手を差しだした。
 ぼくの目のまえには、彼女の膝小僧が見えた。絆創膏は三枚。
 彼女の手をとる。
 八重子は、泣きそうな顔をしていたが、その姿は小さな女の子なんかではなく、ひとりの魅力的な女の人だった。
 
 さて、これからどうしようか。
 人生をダメにしないためにも、ぼくは八重子を、つかまえないといけない。
 そして、光石の呪いの言葉通り、一生おろおろして暮らすのだ。




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2004/8/25  加筆修正2018/6/15
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