積善の家に余慶あり

オンライン文化祭2012 熱 参加作品 (全 6P)



 やっぱりと思ったが、仕方がない。みちるは、左右別の靴下を履いてきてしまった。

 目の前に立つ少年は、まるでいつかの誰かさんのような顔で「村沢さん、どうぞ上がって ください」と愛想よく声をかけてくれるが、みちるは履き古したナイキのシューズの中で足の指を丸めることしかできなかった。
 用意された綺麗なスリッパにナイキを脱いで両足を突っ込むまでかかる時間は、一分も必要ないだろう。しかしその一分で、どれだけの情報を相手に与えてしまうかと思うと、脇汗が出そうだと思った。汗ふきシートは、常にどの鞄にも駅前で配られるティッシュ同様完備しているが、今はそういった問題ではないのだ。汗を拭くのは、あとでいい。
 ふいに、みちるは携帯電話を取りだした。そして、「あっ」なんて言って、いかにも着信があったふうを装った。そこまでしてしまう自分のしたたかさに驚きながらも、これは良い案だとも思った。
 できたらまだ、この少年には自分に対し悪い印象を持ってもらいたくなかった。そのうちわかるであろう、粗忽さなども、今はまだ隠しておきたかった。
 みちるはぴくりとも動いていない携帯に、さも返信するかのようにメールを打ちこむと素早く送信した。二年前、形式上交わしてあったアドレスがまさか使われることになるとは、夢にも思わなかった。

 中学卒業目前にようやく手に入れた携帯電話。
 卒業式の日、部活の同期全員と、同窓会を開こうと交換したアドレス。
 慣れない操作に緊張しながら震えた指先。

 みちるは送信が終わっても、それが目の前に立つ少年に悟られないようにと、手にした携帯を無意味にいじった。
 そうしながらも、自分が今立っている玄関を見ていた。玄関は片付いていた。傘立てには、きちんと巻かれた黒と青とチェックの傘があった。靴は全て下駄箱に収納されているのか、ご近所用と思われるサンダルしか出ていなかった。
 きれいだ。雑然としたみちるの家の玄関よりも、ずっときれいに整頓されていた。
 みちるは、この家を囲むようにしてある庭のすっきりとした様子と、そこにあった変わらず甘い香りを漂わせる金木犀を思った。
 お門違いな感情が溢れそうになるのを堪えるため、みちるはぐっと奥歯を噛みしめた。

 部屋のドアが開く音がした。階段を下りてくる足音も。そして「文也(ふみや)」と目の前の少年を呼ぶ声が、廊下から玄関へと響いてきた。
 呼ばれた少年――文也が、はい、とも、えいとも言えない返事を返すと、「あぁ、みちる。もう来たのか」と人を呼び出しておきながら部屋にこもったままだった真理(まさみち)が現れ、みちるを面倒くさそうな顔で迎えた。


  
サイト トップ へ
web拍手 by FC2


Copyright(c) 2012 kanoko all rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system